「まったく、油断も隙もありゃしない」

出た常套句は、やや作為的で、不似合いに下品だ。口調がうわずってもいる。ヘレンは、腹を立てているだけではなく、えらく緊張しているようだ。

近づいてくる。足の裏が、踵を支点にして、よく磨かれた岩床をはたき、湿った足音を立てる。斜め後ろで立ち止まった、と思う。

まーま、まーまと繰返し呼ぶ声が、右下から、ついで横から、そして右上から聞こえる。抱き上げられたのだ。僕はヘレンと言い争いになるのを避けるため、顔をそちらに向けない。床に散らばったヒマワリの種を、その新たな意味を見出そうとするかのように、実は、本気でそうしているのだが、見つめていた。

「いかがなさいました、おひー様」と寝室との境目あたりからメノトの声がした。これはあからさまにわざとらしい。さっきから覗き見していたのに。

おひー様で思い出した。体育館での演説の後、招かれた宴会の席で、ひーちゃんという呼びかけを何度か聞いた。隣の部屋で、甕からボトルに酒を注いだり、配給食を盆に盛ったりしていた、背中の膨れ上がった中年女が、そう言っていた。あれがメノトだったのか? 声が似ていなくもない。

「いいの、わたくしごとよ。モーには、」

「それはもう」

まーま、まーま。

「も少し、タダヨシは、いるらしいわ」

「そうは思いませんが」

「訊いてみる?」

「いやでございます」

まーま、まー……

「じゃ、わたしが」

僕はそれに応じて振り返る。見当をつけて見上げた位置が少し低くて、とがった顎と長い鼻が焦点の中心だった。ちょっとずれただけなのに、待っていたヘレンの目がそのぶん、より大きくなったように思えた。

「タダヨシ、まだ用事はかたづいていなかったわね」

「御意」

ヘレンは僕から眼を逸らせた。眼を向けた先には、寝室の出口のあたり、ヘレンの腰とベータの垂れ下がった片方の足に半分隠れて、メノトが跪いていた。

「ほら。あなたは部屋でお掃除を続けてちょうだい。耳が聞こえなくなるくらい一所懸命に床を磨いて下さいな」

「はい、水気をよくふき取ってから、二度目は胡桃油で磨きましょう」

メノトは深々と頭を下げ、その姿勢のままゆるゆるあとずさって闇に消えた。

ヘレンは息子の頭頂部を見下ろしたまま黙っている。胸が、抱いたベータと一緒に膨らんだり縮んだりしている。ベータの寝息が聞こえる。かすかにヘレンの息の音も聞こえる。音程は異なるが同調している。さすがに母と子だ。僕はしばらくそれに耳を傾ける。母の呼吸に合わせて呼吸したことがあったかどうか、5カウント間ほど集中して想起を試みた。なかったと思う。カメラのフラッシュにさらされて頭の中が真っ白になった後、僕は母と接触していない。

僕は、今に戻るためのように、ことさら体を前倒しにし、右腕を伸ばして、再びヒマワリの種をつまみあげた。それは、筋張っていて、充分硬い。

立ち上がりながら、「これはなに?」と、ヘレンの鼻の先に近づけて問うた。

「いち」

確信的に答えた。

「違う。ヒマワリの種だ」

ヘレンは怒らなかった。平然としていた。僕はすでに、ヘレンと相対していた。眼は互いに合わせない。

「僕のあとをついて来てごらん」

返事はなかったが、かまわず、部屋の奥の右隅に行った。

コーナーからこれくらい離れていたんだっけ。四つん這いになって、床にヒマワリの種で、線を描いていく。ランニングマシーンの平面図だ。描き始めると、細部が思い出され、コンベアーの縁とサポートとの間の溝に詰まらせたポップコーンなんぞも描き加えたくなった。

その平面図の上で僕は、おおげさに腿上げをしながら後ろに足を蹴って、走っているまねをして見せた。体の軸がどうしても振れた。右足の後遺症が露わだ。

ヘレンは、ベータを抱いたまま、ぼんやり見ているだけで、感想を言わない。

僕は再び四つん這いになって、冷蔵庫とその隣の乾燥食料庫を描く。冷蔵庫のドアも、食料庫の上げ蓋も、それぞれ、その前とその右横に描いた。

取り出してむしゃむしゃ食べるそぶりをした。お下品だが、二、三度ゲップ。ゴミ箱は食べかすを捨てる段になってあわてて描き加えた。

壁に立てかけられていた鏡はどうしようか。

壁から一歩はなれて壁に面して立ち、それから、スミレを押しつぶさないように壁に背をつけて立った。鏡なんだがなあ。君も不思議そうに覗いてから逃げ出したあれだ。

生まれて初めて鏡を見たとき、裏に潜むこびとさんを探そうとして、もぐりこんで、鏡を倒して割ってしまった。怪我をするかもしれない危険性をあえて考慮に入れての父の教育的配慮があったかもしれなかった。朝永という学者は鏡が左右対称ではあるが上下対称ではない理由について考察したそうだ。陸生植物でさえ、もし鏡に映る自分を見たとしたら、不思議に思うだろう。最有力の解答は、重力が垂直に働くので、反転の際の回転軸が垂直になるから。りんごの実が落ちるのを待つまでもなく、自らを鏡の中に見ただけで、重力を発見できたりんごの木もあったはずだ。とっくに発見していたが、我々に教える言葉を持たなかっただけかもしれない。

さて、徐々に、スミレの花が生けられた壁を辿って右下の隅に至った。そこは、洗面所の入り口になる。行き止まりなので、しょうがない、客間には回らず、そこで、歯を磨いたり、歯間ブラシを使ったり、シャワーを浴びたり、便座にしゃがみ込んだりのパントマイムをやって見せた。シャワーを浴びるときにほとんど習慣となっていた自家発電もついなつかしさのあまり真似しそうになった。汗が随分出てきた。

ヘレンは依然として何も言わない。

僕の演技力が至らないのか。

部屋の入り口を通り越して、時計回りに左下の隅に至る。そこが、ベッドの頭の位置だった。僕は、まずベッドの枠を描き、その中で、ねっころがったり、いびきをかいて聴かせたりする。ヘレンは、馬鹿にしたように見下ろしているだけだ。時々、ずり落ちたベータを、膝を曲げてから伸び上がり、抱き直す。ずーごろごろ。容赦ない寝息が聞こえる。

向かい側の壁に接して、机があり、脚立があった。机の上のパソコン。それらの平面図を描きながら、懐かしさのあまり涙が流れそうだった。キーボードは、打ちすぎて磨り減って、何度交換したことか。中腰になって脚立に坐っている姿勢をとり、ピアノを弾くように、空中の見えないキーボードを叩いて見せた。

ヘレンを見ると、興味深げではあるが、不審の念もさらに強まる、といった様子だ。

残りは天井しかない。だが、青空のようだった天井をなんと表現すべきか。僕は天井を仰いで両手を広げて見せた。破れかぶれ、まさにお手上げ、かな。

いや、床が残っていた。机とベッドの間の床だ。ヘレンがあの時とった姿勢を、僕は、破廉恥にも記憶にある限り忠実にやってのけた。仰向けになって体を左右にねじりながら足をこぐ。腹ばいになって両手を前に伸ばして尻を高々と突き出す。官能の薬味が効いて、あの夜の僕の部屋はほとんどよみがえったかに思えた。もうこれ以上は出来ない。

ねえ、ヘレン、これでも思い出さないかい?

おや、ヘレンがいない。いつの間にやらいなくなっていた。呆れて逃げてしまったのか?

奥の部屋で、ヘレンとメノトが話しているのが聞こえた。始めはひそひそ、段々普通に、たちまちフォルティッシモに。

「場所は、十三夜の谷、モーのお気に入りのリゾート、あそこにもスミレがいっぱい萌えているわ。ベータも喜びます」

「随分遠いところですね。この体ではしんどいのですが。まして、ベータ様を抱いてなんて」

「暇なクロードはいくらでもいます。一緒に行けばいいのです。アナックにお願いしてね」

「どうしても、でございますか」

「モーが帰ってくるまでには、スミレはすべて萎れてしまいます。あなたたちがスミレをたくさん摘んでくれば、根ごと抜いてくるのもいいわね、モーも、さぞや喜ぶことでしょう」

「さようでございますか?」

「モーのことを一番よく知っているのは私ですよ」

「失礼をばいたしました」

その後、急に話し声が低くなり、静まった。鈍い物音がした。

奥の部屋から、熟睡している赤ん坊を抱えてメノトが出て来た。部屋の真ん中で座り込んでいる僕とは眼を合わせない。ただし、首を横に振り続けていた。

そのまた後の時間は長く、このまま場面が凍りついてしまうかと思うほどだった。

だから、奥の部屋から、ヘレンが現われたとき、停止していた心臓の心室が再び動き始めたようだった。この部屋という心室も、僕の心室も。

奥の部屋の暗闇を背景に、居間の燐光を浴びてそそり立つヘレンの美しさといったらなかった。

眠りから醒めたばかりの王妃の物憂さを全身に漂わせながらも、大きなその眼は正気づき、周囲と我が身をあらためて検分しているように、せわしなくうごめいていた。

僕は、興奮し始めた。

悪だくみが、やっと、やっと、功を奏すところだ。

どこやらから、かすかな、リズムをとる音響が聴こえてきた。

立ち上がって、ヘレンに歩み寄り、左手を、拒まない、彼女の右手に、拒まない、小指から順に、拒まない、薬指、拒まない、中指、もう指と指の間が開いている、人差し指親指と絡み合わせていった。次に、暖気の降りてくる腋の下をかいくぐらせて、右手の親指の付け根を湿った肩甲骨の間に押し当てた。腹と腹が接触しそうだ。今や、へレンの顔が、僕の顎の、ほんの先にあって、見上げていた。その眼は、爛々と輝いていた。その両眼の瞳に、驚愕と驚喜を必死で押し殺す僕の顔が映っていた。

足音のようなリズムが聞こえてくる。段々と近寄ってくる。しかし、三拍子の足音なんぞはない。ドギーを殺した三本脚の畸形の恐竜ではあるまいし。いやいや、足音ではない。鼓動だ。拍動だ。僕の心臓の音かもしれない。右心房にきつい障害があるかのように一拍目が強い。うんたたたっ、と打っているからだ。

遠くではなく脳の中でワルツが演奏されていた。僕の歓喜が指揮をとって。近寄ってくるのではなく段々大きくなってきたのだ。僕は首を斜め下へ伸ばして、舌の先でヘレンの左の耳たぶを触った。その瞬間、かすかな痙攣を感じた。冷たくて柔らかかった。そこは静かだった。左手の親指を伸ばして、右の掌の付け根を探った。見つけた。ヘレンにも同じリズムがあった。親指が触っているところ。暖かくて柔らかかった。そこは脈打っていた。

ああ、うるわしの、三拍子。

僕は、ヘレンの右足先を左足でつついて、さ、ワルツを踊ろう、ボックスから始めた。ヘレンはすんなりあわせてきた。

るんらっら、るーらーら、るんらっら、るーらーらー、るんらっら、るーらーら、るんらっら、るーらーらー

体の位置を九十度変えれば、部屋全体が九十度逆回転する。近くの壁のクマグスと花々はゆっくりと移動するので詳細に観察できるが、遠くの壁のそれらは急速に視界を走るので形態は崩れ、色は混合する。

らっ、らーら、るんらーららーら、るんらっらっ、らーら、るんらーららーら

ナチュラル、スピン、リヴァースと、ターンを続けていると、近い壁との間の内径と、遠い壁との間の外径を持つ、二種の円運動が、るららららららー、るららららららー、直進する場合の近景と遠景の動きとは逆の効果を視覚にもたらすので、船酔いに似た酩酊感を味わう羽目となった、るらららららるらららららるららららららー

メノトが胡桃油を含ませたスポンジで磨いた床面はきわめて滑らかで、まるで凍った湖の表面のようだった。

吐息のようにヘレンがつぶやいた。

「そうだった、あなただったわ」

らっらっ、るーららららー、るーららららー、るーららららーら、るーららららーら、るーらららるらりらるらるらりらるららっ!

麝香の匂いではない。僕の部屋の冷蔵庫にあった大好物の青カビチーズの匂いが立ち昇ってきた。

ヘレンの腰が抜けた。

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