プルタークの祝祭日で使われたような竹竿を切って並べ、裂いた竹を渡して、蔦で固定して作った筏の上に、竹皮を包帯にして捲いたものを、やはり蔦で筏に縛り付けてある。上流を指しているそのものの端が、竹皮の隙間から見えているので、その正体は分かってしまう。痩せた、細長い、白い足の指が覗いている。白っ子1の遺体だ。僕は目を凝らして探す。見つけた。遺体の胸に当たるところに、根元に血痕をつけた薄茶色の歯が見えた。筏は、上流側がやや幅広に作ってあるので回転はせず、左右に小刻みに尻を振りながらも、うっすらと落とした影で黄色い川底を掃きながら、軽快なスピードで風景を貫いて流れて来る。
風景全体の明るさは異常なほどで、まことに、火の神、天にしろしめし、世はすべて光満つ! 大盤振る舞いされた光は、何であれ突出するものにしつこくまとわりつく影さえも、回りこんで駆逐するほどに過剰だ。地獄の風景は燦然と輝き、隈なく、つまびらかに、荒涼たる自己を開示している。天上から降ってくる蝉の大合唱と、湯の流れが奏でる循環コードをレクイエムと受けとれば、葬送の儀式に、これほどふさわしい場があるだろうか。
沐浴していた男が中腰のまま上半身を左へねじり、右手を伸ばした。掌を上に覆して陽光を掬い、それを与えるかのように筏に向けた。筏の移動にしたがって、手の先も移動する。
僕は、筏を正面に見ながら、手首を垂らしたまま両肘を水平に挙げ、シャッセで横向きに走った。両膝を曲げてから、左足で蹴り、右足を出して脚を開き、蹴った左足をその踵の後ろにひきつけて脚を閉じ、また左足で蹴り、右足を出し、左足を寄せる。開いた時の八分音符と閉じた時の十六分休符の繰返し。踏みしめるたびに足の下で小石が擦れ合い、炭酸のはじけるような音がした。
対岸の、黒く縁取りされた岩の群れは、ほとんど動かないが、代赭色の川原は、ゆっくりと、黄色の川原はもう少し速く、川底はもっと速く、手前の川原はさらに速く、ちょうど僕の走るのと同じ速さで逆方向に移動して行く。速さのグラデイション。
移動しないのは、筏だけだ。無数の波頭は、背びれのないエメラルドグリーン色した小魚の群れであり、筏の神輿を担いでいる。神輿は練るのではなく追い山のように疾走し、川のほぼ中心軸上を転がりながら下って行く火山岩を追い越そうとする。球になりかけのその岩は、かなり軽い。底でバウンドしては息継ぎをするように水面上に全体の三分の一ほども姿を現し、前方に水しぶきを吹きつけ、また潜る。僕はその上に、必死で釣り合いを保とうとしながらも、滑稽な死の舞踏を踊ってしまうアルルカンの姿を想像した。石灰を全身にまぶし、木の葉を綴って作ったガウンをまとい、瞼を漆で塗ったアルルカン。彼は、恐怖のあまり糞尿を撒き散らしながらも奮闘したが、ついに転げ落ち、水中で足掻いた末に力尽き、観念して溺れるに身を任せ、底なしの宴の池に沈んでいった……
筏が岩の向こう側を通り過ぎる。岩と接触したらしく、擦過音がかすかに聞こえた。斜めに少々傾いだが、すぐに復原した。
僕の両脚の動きは、昨晩の僕の或る動作をありありと思い起こさせた。湯の中で、右脚の傷跡を刺激しないようにと左右非対称の立ち泳ぎをしていたが、あれはまさに今やっているシャッセの足さばきだった。ツーット、ツーット、という三拍子。モールス信号では、た、た、という音を表わす。
僕の想起に、あるいは、信号に応ずるように、包んだ笹を透き通して、水面に仰向けに横たわり、僕と口論していた白っ子1が蘇った。足の指も脚も胴も肩も頬も痩せこけて、骨盤と肋骨が、カルデラのように落ち込んだ腹を囲んでいる。眼窩の奥から夜の空を見上げながら、左手で、顔をぬぐったり、モーゼ人形をまさぐったりする。左利きだったのが今分かった。声量の乏しいその声だって聞こえる。“ああもう、君が馬鹿だから、こっちはまた、愚痴るしかないなあ”
僕は、あの、死者の傍らに立つ者の慨嘆の詩である般若心経を唱え始めた。男のご詠歌と混じってしまう。
君はもう苦しまない。悩まない。痛くも痒くもない。気持ちいいこともなくなったけれど。
当たり前のことが、幻想だったんだ。幻想だけが人生さ。/ああ、火の神にぞ願ひたてまつる、祈りたてまつる。逝きし父母、いと尊し。成仏せさせなむ。別れし妹児ら、いとゆかし。去にし友がら、いとくるし。すくやかにあらせなむ、すくやかにあらせなむ。/善、正、美、真、徳、理念はない。それらの意味がもうないからだ。対立、差異、識別、分類、分節はない。だから、明暗、シニファンシニフェ、彼我もない。それらを成り立たせる必要がもうないからだ。/ああ、火の神にぞ願ひたてまつる、祈りたてまつる。風をして吹かしめたまへ。種飛ばせ、鳥飛ばせたまへ。雨をして降らしめたまへ。花咲かせ、果実らせたまへ。/我はない。だから、我は我を思えない。我が消えたのもわからない。君はすべての拘束から逃れた。存在という拘束からさえ逃れた。よかったね。/ああ、火の神にぞ願ひたてまつる、祈りたてまつる。我があだことをゆるせかし、我がひがことをゆるせぞかし。まかる身の、とが、らうぜきの、いふかひなきを。われかのけしきを。/帰りなん、帰りなん、いざ。故郷の虚無へ、帰りなん。二度と戻ることのない、まったき虚無の地へ。ネヴァーランドへ。
筏と、壊疽の左腕を垂れた男の右腕が直交する瞬間、死者と死なんとする者が最短距離に近づいたすれ違いの瞬間、僕は、男の真後ろにいた。三者が一直線上に乗った。筏が、男の、前方に湾曲した背によって、左右に二分された。
僕はひときわ大きな声を出して、筏に向かって叫んだ。
Oh! Gyaa Tiee ! Hurry Gyaa Tiee ! Gyaa Tiee Gyaa Tiee ! Hurry Gyaa Tiee !
男は不審に思っただろうが振り向かなかった。耳までも侵されているのかもしれない。
もちろん、白っ子1も応じない。死者に向かって叫んでも、それは大声張り上げての独白に過ぎない。遺体は想起のためのよすがに過ぎない。抜け殻、遺物、残骸だ。どんな気持ちからであれ、遺体に執心するのは、グロテスクなフェティシズムだ。だが、それは分かっていて僕は叫んだ。
遺体は、有機物が無機物に向かって邁進するのに並行して、湯の川を下り、湖に入り、滝を落下し、大河をさらに下り、海に至るだろう。いや、海に至るずっと手前で、鳥や魚や甲殻類や昆虫に喰われてしまうだろう。では、遺体という抜け殻から脱した白っ子1は、どこへ行くのか。僕の中へだ。僕の中へやって来る。
……君は僕の内部に住むこととなった。君との対話は独白の一形式となった。これからずっとそれを楽しむつもりだ。帝国の理念を一身に具現化しているかどで、僕は君を相変わらず非難するだろうし、それだからこそ美化もするだろう。僕の成長や堕落に従って君も変容するだろう。君はもう僕から逃げられない。ついでに言うと、僕のほうこそ君から逃げられないよ。だって、君は、死んじまったんだもの、しかたないじゃないか、残された者は死者とそのようにしか付き合えないんだ、友よ。さらに、許してもらいたいこと、いや、いくら許しを乞うても許してもらえないことがあるんだ。僕が、早い時期に湯から出るように誘っていれば、君が溺れ死ぬようなことはなかっただろう。なぜそうしなかったのかと思い返してみて、自分でも愕然とするような可能性を発見したんだ。君と僕とに共通する部分に関して僕は近親憎悪のような感情を持ち、君に対する冷静なケアを実行できなくなった疑いがある。僕は、感情をのさばらせないように今までどれほど警戒してきたことか。だが感情は、警戒の目をくぐり、僕が後から省みてやっと気づくか気づかないほどにこっそりと巧妙に働き、君の死をテーマにして極悪の先例を作ってしまったようだ。ああ、僕が君を殺したのかもしれない。君は自らを見殺しにした者とこれから暮らす羽目に陥ったのかもしれないぞ……
僕に、ある疑問がとり憑いた。白っ子1が向ったはずの、まったき虚無の地、ネヴァーランドはどこにあるのか。死んだ白っ子1が、今やNOBODYとなった白っ子1ではなく、内なる白っ子1として僕の中にこれから住むとしたら、僕の内部にこそネヴァーランドはあることになる。白っ子1の仲間たちのそれぞれについても状況は同じだろう。
しかし、この判断は間違いであると思う。なぜなら、僕の内部に住む白っ子1は、あくまでも具体的な個体としての思い出と、それに基づくシミュレイションでもって形成され、従って、知覚し、概念を構え、反省し、認識し、世界観を持ち、つまり脳神経系の活動を仮想的にであれ前提にしているからだ。つまり、相変わらず幻想を生き続け、死んではいないのだ。思い出を核にして僕の内部で生きていく白っ子1と般若心経を唱えながら見送る白っ子1とは異なる。
生前の白っ子1自身は、死に関して直接には発言していなかったと思う。ただ、気になる言葉を思い出した.曰く、私は、いくら行っても 永久に境界にはたどり着けない。境界は後退する。境界に意味はない。常に、内、しかない。
このような空間についての限界到達不能性は、市民が抱く、現在という拘束の内でしか生きていけないという、時間についての固定観念と、相似性をもっている。市民は、過去は、思い返すべき事柄ではなく、そこに立ち返る行為だ、立ち返れないから、忘れて当然だ、と思い込まされているふしがある。まさかとは思うが。立ち返るなぞ、たとえタイムマシーンの存在を仮定しても無理な話だ。
タイムマシーンがあるとして、それに乗り込み、過去へ行くためのスィッチを押したとする。マシーンが過去へ発進した瞬間、スィッチを押す前の過去に戻るので、マシーンは止まってしまう。いくら押してもスィッチは元に戻ってしまい、過去には行けない。現在で足踏みするだけで、どうしても過去を体験できない。どうしても体験できないという意味で、死は過去に似ている。
タイムマシーンは過去には行けないことが分かった。では未来には行けるのか? 未来へ行くためのスィッチは押しても戻らないから、行けることは行ける。しかし未来から現在に戻ろうとすると、現在は未来の時点から見て過去なので、スィッチのバラドックスが再びはたらいて、戻れなくなる。行ったらば戻れないという意味で、死は未来に似ている。
たどり着けない国境~たどり着けない過去~たどり着けない死~戻ってこれない未来~戻ってこれない死。死にはたどり着けず死からは戻ってこれないという論理的な矛盾が、タイムマシーンによる時間航行を観察した場合でも、類比的に出てくる。いや、矛盾はしていないのかな?
我に返った。右足を着いた時、足の裏に微弱な電流が走ったように感じたせいだ。大気中の音速が地表の振動速度より小さいので、0.5カウント後に、上流の方から大砲をぶっ放したような音が聞こえた。湯煙を透かして見ると、胴体に虹を引掛けた純白の水柱が立ち上がっていた。間歇泉が湯を吹き出したのだ。空白の鯨が破水したかのように。放出の向きがずいぶん異なるけれど。
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風景全体の明るさは異常なほどで、まことに、火の神、天にしろしめし、世はすべて光満つ! 大盤振る舞いされた光は、何であれ突出するものにしつこくまとわりつく影さえも、回りこんで駆逐するほどに過剰だ。地獄の風景は燦然と輝き、隈なく、つまびらかに、荒涼たる自己を開示している。天上から降ってくる蝉の大合唱と、湯の流れが奏でる循環コードをレクイエムと受けとれば、葬送の儀式に、これほどふさわしい場があるだろうか。
沐浴していた男が中腰のまま上半身を左へねじり、右手を伸ばした。掌を上に覆して陽光を掬い、それを与えるかのように筏に向けた。筏の移動にしたがって、手の先も移動する。
僕は、筏を正面に見ながら、手首を垂らしたまま両肘を水平に挙げ、シャッセで横向きに走った。両膝を曲げてから、左足で蹴り、右足を出して脚を開き、蹴った左足をその踵の後ろにひきつけて脚を閉じ、また左足で蹴り、右足を出し、左足を寄せる。開いた時の八分音符と閉じた時の十六分休符の繰返し。踏みしめるたびに足の下で小石が擦れ合い、炭酸のはじけるような音がした。
対岸の、黒く縁取りされた岩の群れは、ほとんど動かないが、代赭色の川原は、ゆっくりと、黄色の川原はもう少し速く、川底はもっと速く、手前の川原はさらに速く、ちょうど僕の走るのと同じ速さで逆方向に移動して行く。速さのグラデイション。
移動しないのは、筏だけだ。無数の波頭は、背びれのないエメラルドグリーン色した小魚の群れであり、筏の神輿を担いでいる。神輿は練るのではなく追い山のように疾走し、川のほぼ中心軸上を転がりながら下って行く火山岩を追い越そうとする。球になりかけのその岩は、かなり軽い。底でバウンドしては息継ぎをするように水面上に全体の三分の一ほども姿を現し、前方に水しぶきを吹きつけ、また潜る。僕はその上に、必死で釣り合いを保とうとしながらも、滑稽な死の舞踏を踊ってしまうアルルカンの姿を想像した。石灰を全身にまぶし、木の葉を綴って作ったガウンをまとい、瞼を漆で塗ったアルルカン。彼は、恐怖のあまり糞尿を撒き散らしながらも奮闘したが、ついに転げ落ち、水中で足掻いた末に力尽き、観念して溺れるに身を任せ、底なしの宴の池に沈んでいった……
筏が岩の向こう側を通り過ぎる。岩と接触したらしく、擦過音がかすかに聞こえた。斜めに少々傾いだが、すぐに復原した。
僕の両脚の動きは、昨晩の僕の或る動作をありありと思い起こさせた。湯の中で、右脚の傷跡を刺激しないようにと左右非対称の立ち泳ぎをしていたが、あれはまさに今やっているシャッセの足さばきだった。ツーット、ツーット、という三拍子。モールス信号では、た、た、という音を表わす。
僕の想起に、あるいは、信号に応ずるように、包んだ笹を透き通して、水面に仰向けに横たわり、僕と口論していた白っ子1が蘇った。足の指も脚も胴も肩も頬も痩せこけて、骨盤と肋骨が、カルデラのように落ち込んだ腹を囲んでいる。眼窩の奥から夜の空を見上げながら、左手で、顔をぬぐったり、モーゼ人形をまさぐったりする。左利きだったのが今分かった。声量の乏しいその声だって聞こえる。“ああもう、君が馬鹿だから、こっちはまた、愚痴るしかないなあ”
僕は、あの、死者の傍らに立つ者の慨嘆の詩である般若心経を唱え始めた。男のご詠歌と混じってしまう。
君はもう苦しまない。悩まない。痛くも痒くもない。気持ちいいこともなくなったけれど。
当たり前のことが、幻想だったんだ。幻想だけが人生さ。/ああ、火の神にぞ願ひたてまつる、祈りたてまつる。逝きし父母、いと尊し。成仏せさせなむ。別れし妹児ら、いとゆかし。去にし友がら、いとくるし。すくやかにあらせなむ、すくやかにあらせなむ。/善、正、美、真、徳、理念はない。それらの意味がもうないからだ。対立、差異、識別、分類、分節はない。だから、明暗、シニファンシニフェ、彼我もない。それらを成り立たせる必要がもうないからだ。/ああ、火の神にぞ願ひたてまつる、祈りたてまつる。風をして吹かしめたまへ。種飛ばせ、鳥飛ばせたまへ。雨をして降らしめたまへ。花咲かせ、果実らせたまへ。/我はない。だから、我は我を思えない。我が消えたのもわからない。君はすべての拘束から逃れた。存在という拘束からさえ逃れた。よかったね。/ああ、火の神にぞ願ひたてまつる、祈りたてまつる。我があだことをゆるせかし、我がひがことをゆるせぞかし。まかる身の、とが、らうぜきの、いふかひなきを。われかのけしきを。/帰りなん、帰りなん、いざ。故郷の虚無へ、帰りなん。二度と戻ることのない、まったき虚無の地へ。ネヴァーランドへ。
筏と、壊疽の左腕を垂れた男の右腕が直交する瞬間、死者と死なんとする者が最短距離に近づいたすれ違いの瞬間、僕は、男の真後ろにいた。三者が一直線上に乗った。筏が、男の、前方に湾曲した背によって、左右に二分された。
僕はひときわ大きな声を出して、筏に向かって叫んだ。
Oh! Gyaa Tiee ! Hurry Gyaa Tiee ! Gyaa Tiee Gyaa Tiee ! Hurry Gyaa Tiee !
男は不審に思っただろうが振り向かなかった。耳までも侵されているのかもしれない。
もちろん、白っ子1も応じない。死者に向かって叫んでも、それは大声張り上げての独白に過ぎない。遺体は想起のためのよすがに過ぎない。抜け殻、遺物、残骸だ。どんな気持ちからであれ、遺体に執心するのは、グロテスクなフェティシズムだ。だが、それは分かっていて僕は叫んだ。
遺体は、有機物が無機物に向かって邁進するのに並行して、湯の川を下り、湖に入り、滝を落下し、大河をさらに下り、海に至るだろう。いや、海に至るずっと手前で、鳥や魚や甲殻類や昆虫に喰われてしまうだろう。では、遺体という抜け殻から脱した白っ子1は、どこへ行くのか。僕の中へだ。僕の中へやって来る。
……君は僕の内部に住むこととなった。君との対話は独白の一形式となった。これからずっとそれを楽しむつもりだ。帝国の理念を一身に具現化しているかどで、僕は君を相変わらず非難するだろうし、それだからこそ美化もするだろう。僕の成長や堕落に従って君も変容するだろう。君はもう僕から逃げられない。ついでに言うと、僕のほうこそ君から逃げられないよ。だって、君は、死んじまったんだもの、しかたないじゃないか、残された者は死者とそのようにしか付き合えないんだ、友よ。さらに、許してもらいたいこと、いや、いくら許しを乞うても許してもらえないことがあるんだ。僕が、早い時期に湯から出るように誘っていれば、君が溺れ死ぬようなことはなかっただろう。なぜそうしなかったのかと思い返してみて、自分でも愕然とするような可能性を発見したんだ。君と僕とに共通する部分に関して僕は近親憎悪のような感情を持ち、君に対する冷静なケアを実行できなくなった疑いがある。僕は、感情をのさばらせないように今までどれほど警戒してきたことか。だが感情は、警戒の目をくぐり、僕が後から省みてやっと気づくか気づかないほどにこっそりと巧妙に働き、君の死をテーマにして極悪の先例を作ってしまったようだ。ああ、僕が君を殺したのかもしれない。君は自らを見殺しにした者とこれから暮らす羽目に陥ったのかもしれないぞ……
僕に、ある疑問がとり憑いた。白っ子1が向ったはずの、まったき虚無の地、ネヴァーランドはどこにあるのか。死んだ白っ子1が、今やNOBODYとなった白っ子1ではなく、内なる白っ子1として僕の中にこれから住むとしたら、僕の内部にこそネヴァーランドはあることになる。白っ子1の仲間たちのそれぞれについても状況は同じだろう。
しかし、この判断は間違いであると思う。なぜなら、僕の内部に住む白っ子1は、あくまでも具体的な個体としての思い出と、それに基づくシミュレイションでもって形成され、従って、知覚し、概念を構え、反省し、認識し、世界観を持ち、つまり脳神経系の活動を仮想的にであれ前提にしているからだ。つまり、相変わらず幻想を生き続け、死んではいないのだ。思い出を核にして僕の内部で生きていく白っ子1と般若心経を唱えながら見送る白っ子1とは異なる。
生前の白っ子1自身は、死に関して直接には発言していなかったと思う。ただ、気になる言葉を思い出した.曰く、私は、いくら行っても 永久に境界にはたどり着けない。境界は後退する。境界に意味はない。常に、内、しかない。
このような空間についての限界到達不能性は、市民が抱く、現在という拘束の内でしか生きていけないという、時間についての固定観念と、相似性をもっている。市民は、過去は、思い返すべき事柄ではなく、そこに立ち返る行為だ、立ち返れないから、忘れて当然だ、と思い込まされているふしがある。まさかとは思うが。立ち返るなぞ、たとえタイムマシーンの存在を仮定しても無理な話だ。
タイムマシーンがあるとして、それに乗り込み、過去へ行くためのスィッチを押したとする。マシーンが過去へ発進した瞬間、スィッチを押す前の過去に戻るので、マシーンは止まってしまう。いくら押してもスィッチは元に戻ってしまい、過去には行けない。現在で足踏みするだけで、どうしても過去を体験できない。どうしても体験できないという意味で、死は過去に似ている。
タイムマシーンは過去には行けないことが分かった。では未来には行けるのか? 未来へ行くためのスィッチは押しても戻らないから、行けることは行ける。しかし未来から現在に戻ろうとすると、現在は未来の時点から見て過去なので、スィッチのバラドックスが再びはたらいて、戻れなくなる。行ったらば戻れないという意味で、死は未来に似ている。
たどり着けない国境~たどり着けない過去~たどり着けない死~戻ってこれない未来~戻ってこれない死。死にはたどり着けず死からは戻ってこれないという論理的な矛盾が、タイムマシーンによる時間航行を観察した場合でも、類比的に出てくる。いや、矛盾はしていないのかな?
我に返った。右足を着いた時、足の裏に微弱な電流が走ったように感じたせいだ。大気中の音速が地表の振動速度より小さいので、0.5カウント後に、上流の方から大砲をぶっ放したような音が聞こえた。湯煙を透かして見ると、胴体に虹を引掛けた純白の水柱が立ち上がっていた。間歇泉が湯を吹き出したのだ。空白の鯨が破水したかのように。放出の向きがずいぶん異なるけれど。
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