浮舟:ロンドンブーツ、ナインティナイン、ダウンタウン、ガレッジセール、のりおよしお、やすしきよし、いくよくるよ、大助花子、千里万里。喋々雄二、いとしこいし、も聴いたわよね。
ヘレン:私はすっかり忘れてたのよ。夜、かなちゃんに言われて思い出し始めたら、笑いが止まんなくなっちゃって。あらやだ、あはは、あは、あは、あははははは。(いま泣いたカラスがもう笑っている) まただわ。やめてよ。
(僕はそういうもの、漫才という形式のトーク・コメディを聴いたことがなかった。プルターク祝祭日の歌曲も漫才も父は僕に聴かせなかった。いったいどういうつもりだったのか。)
僕:君らでちょっとだけやってみてくれないか?
浮舟:ええわよ。ほな、いくでえ。ヘレンちゃん、そないに急いで、どこ行くねん。
ヘレン:お見合いやわ。
浮舟:にらみ合い? そら相手が負けるわ。めーがつりあがっとるもん。
ヘレン:生まれつきじゃ、あほ。お見合いゆうてんのがわからへんのか。
浮舟:何でそないなむだなことすんねん。
ヘレン::おとめ心を傷つけるような言い方やめてんか。
浮舟:どこがおとめや。ふとめのくせして。
ヘレン:もうっ、ブーブーッ。万が一ちゅうこともあるやないか。
浮舟:あらへん、あらへん。それよか、ここで待っとれば、うちのハンサムな従兄弟が来るはずや。わてことわってきてやるわ。で、見合いの場所はどこやねん。
(両者ともおもむろに僕を見た。)
僕:そんなに面白いとは思わないね。ありきたりなオチだ。ふとめのくせしては笑えたけど。
浮舟:ふん。
ヘレン:ふん、やなやつ。
真昼をやや過ぎたものの、太陽は青空の中心に君臨し、湖からの微風にもかかわらず、川辺と変わらずに暑い。斜面から突き出た岩の柱。風化した岩石が敷き詰められた巌頭は平らかで、半径5メートルほどの円盤をなし、宙に浮かんだ舞台のようだ。実際、浮舟はここでダンスの練習をするという。さらに、静養に来たモーゼが、、死にかけている逃亡者たちを無理やり川原に集めて、侮蔑と哀れみに満ちみちた演説を投げかけるバルコニーでもある。舞台下手が、川の上流の側にあたり、こちらに向かって流れてくる川筋が、白煙に霞みながらも岩の縁のかなたに見える。対称的に上手は下流を指しており、やはり舞台の袖、それも一袖あたりの位置の奥にフンジャリを見送った細流との合流点が見える。巌頭がせり出しているし、僕が胡坐をかいて坐っているので、川の近景は見えない。戯れに、斜め下方から崖縁越しに聞こえてくる循環コードに乗った水音を頼りに、二本の点線で川の両岸を表わし、上流と下流を想像の内に結んでみた。せり出した巌頭の指す先は、谷を越えた向かいの斜面に広がる草原とその上のジャングルで、不毛の岩肌はやはり隠れて見えない。草原とジャングルを背景に、正面やや下手にヘレンが坐っている。右ひざを立てて、右ひじをそれにもたれかせ、左手で左膝を突っ張って、左足を横倒しにし、その踵を体の中心にひきつけている。肩から腕にかけて白い肌のかなりの部分がピンクに日焼けしている。目の下の涙は、恐らくはスポンジで、既にぬぐわれている。上手に坐っているのは浮舟だ。ヘレンとの距離は2メートルほどもあるので、後々僕を間に据えて挟む魂胆かもしれない。長い脛をそろえて横倒しにしているが、時々胴をよじって、左右の向きを変える。瞬きにひどく時間をかける両眼は、何らかの事情で薄目しか開けられないと思えるほどに切れ長なので、どこを見ているのかよくわからない。ベータだけでなく僕をも悩ます大乳の持ち主である豊満なヘレンとは異なり、あばら骨が浮き出るほど痩せ、乳房も垂れている。かつてはいかにもやつれているように見えたものだった。しかし、今つくづく観察するに、オリーブ色に焼けた薄い肌はオリーブ油を塗りたくられているかのように陽に輝き、その下で細やかな筋肉が鎖帷子のように全身を覆っているのが窺える。ラップダンサーというよりはバレリーナの肉体だ。川辺での仕事振りも合わせて考えると、プルターク祝祭日に唄った退廃的な歌詞から推察される思想(?)とは裏腹に、実は浮舟は、肉体的に鍛え上げられた、精悍でタフな女なのかもしれない。陽の下で、しかも近くに寄って、初めてわかった。僕は、これまでの思い込みを恥じるとともに、彼女が、その矛盾を意識的に作り出し維持しているのではないかという興味深い疑いにとらわれた。さらに、悪趣味すれすれの擬似関西弁、なげやりなしぐさ、軽薄なユーモアなどが、矛盾を矛盾としないための仕掛けかもしれないという疑いにとらわれた。僕はその解明を、喜びに近いおののきを伴って自らに期待している。一方、ヘレンの良過ぎる乗りは心配だ。状況によってはこうなることは覚えておこう。
三者会談を始めてから、時間にして700カウントが過ぎたところだ。
浮舟:あら、ビッグママ!
(振り向くと、メノトの険悪な目が僕を睨んでいた。慌てて体勢を元に戻す。)
メノト:おひー様、かな様。そろそろお眠りにならないと。
ヘレン:興奮が昨晩から続いていて、眠れそうにないわ、私たち。
(確かに浮舟とヘレンは極度の躁状態にある。昨晩は、周りで子供らを遊ばせながら、それぞれの記憶を付き合わせ、夢中で過去を再構築しているうちに、たちまち夜は明けてしまったそうな。)
メノト:そんなことかと思い、睡眠導入剤を持参いたしました。
(何かと思って再び振り向く。メノトが顎を引いて胸元を見下ろしまた上げた。例の、梶田化学工業株式会社という奇怪な印が押されたプラスチックの容器が二つ、直角に重ねて奉げ持たれていた。中には七分目ほどまで液体が入っている。)
浮舟:さすがは、ビッグママ。気が利くわ。
メノト:御両者とも昨日から数えてこれが何杯目か覚えておいでではないでしょう。これでおしまい。ああ、トネリが俺たちの分まで飲んじまったと文句を言いにくるでしょうね。
メノトはそれぞれの前に容器を置くと、僕を一瞥してから、舞台の背後の洞穴へ引き下がった。
容器の中の睡眠導入剤とは、マンゴスチンの発酵酒だ。僕も舞台の下で味わった。
斜面に近づきながら、川原を走っていくと、やがて見覚えのある岩の柱が見え、その麓にヘレンが立っていた。胸の前に、大き目のスポンジを、両手で携えていた。僕が走るのを止めて歩いていくと、体全体をぶるりと震わし、こちらに向かって走り始めた。額で僕の胸にぶつかると、見上げて、お帰りなさい、ダーリンとつぶやいた。喉が渇いているでしょ。はい、これ。ヘレンはスポンジを僕の口に押し付けた。僕はそれを両手で受け、改めて大きく口をあけ、ゆっくりと絞りながら汁を吸った。ヘレンの体温で生ぬるくなっていたが、天から下った甘露は、五臓六腑に染み渡った。
ヘレンの後について岩の柱に近づくと、ヘレンは横にどいて、お先にどうぞと言った。かなちゃん、いるわよ。岩がなす螺旋階段を登り始めた時、背後のヘレンが悲鳴を上げた。僕の両膝を外側からそっと両手で包んだ。あざだらけじゃないの。傷もいっぱい。ここ、皮膚が裂けてるじゃないか。いったい何してきたのよ。手も声も震えていた。裂傷には気づかなかった。タイマンの相手の足の爪で切れたのだろう。裂傷があるらしいところが、温かくなり、こそばゆくなった。へレンが膝をついて舐めているらしい。くすぐったいって。砂が入ってるわ。こっち向いて。やっぱりあざだらけだ。両膝とも血が出てるじゃないの。右足の向こう脛がほっぺたみたいに腫れてるよっ。ヘレンは顔を落としてすすり泣いた。項、背中、尻が、重なって見える。足の甲に涙が落ちた。いいのよ。わたしを泣かせてもいいのよ。好きなことをやりなさいな。いくらでも泣いてやるわよ。うう、うう、うう。
僕はゆっくりと身体を回すと、再び登り始めた。この女を悲しませないぞと何度も決意を繰り返したのに、このざまはなんだ。お前はこの女に甘えているだけだ。最低の男だな。では、どうするのだ。悲しませないようにする道があるのか? 別々に生きて行けばよい? 別れるようにと説得できるか? この女をも自分をも出来ないだろうに。じゃあ、どうする。この地にいる限りはこの女は悲しむ。じゃあ、この地を去ればよい? 不可能だ。追っ手、異民族、肉食動物、病原菌等々によってたちまち死刑執行となるだろう。〝私たち、子供らを連れてジャングルをさ迷うはめになるのよ!、 もっともっとひどいことになるかもしれないのよ! わかってんの?〟 この地に留まる覚悟なら、悲しませないなどと自分で自分に大口をたたくのをやめることから始めるんだ。そして、これからも悲しませるはずだと認めるのだ。だが、そう認めることは、いくらでも泣いてやるわよと既に言っている以上、これまた甘えることになる…………余計なことは女に知られないように立ち回り、行動を戦略的に組織的に政治的に進化させるのが正攻法だ。しょせん僕はまだ成長しきってはいない。身の程知らずなのだ。今は、跳ね上がらず、焦らず、地味な経験を積み重ねて実力をつけるしかない…………本当にそうか?
たとえ泣いても悲しいからではないようにしてやるのがお前のつとめではないのか?
岩の柱を四分の一周すると舞台に出た。中央に浮舟が立っていた。僕を見てうなずいた。背後から、かすかに震えるため息が聞こえた。いよいよ彼女たちと話を始めるのだ。それにかける時間を3000カウントとした。そう決めるや否や、いや、不思議なことには、決めるよりも少々早く、脳のどこかでカウントが開始された。1,2,3,4、……
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