白砂青松、砂浜は目を攻撃するかのように明るすぎ、松たちは全員イナバウアー。海に向かってのけぞっている。
小学生の私は、母と妹とともに、父の入院している結核療養所に向かって歩いている。


泥濘と混じっている原油や天然ガスを取り出すために、現在は地上で発生させた高熱蒸気をパイプで地下に送って温度を上げ、溶かし、それを別のパイプで受けて吸い上げている。
だが、地上で無駄な熱生産をする必要はない。地下の熱水、マグマを利用すればよい。熱水やマグマを経由して、固化した石油層に、パイプではなく、熱伝導性の高い金属棒を突っ込めばよい。つまり、火山帯の近くの固化石油層を探せということ。

小型の木造漁船を浜に引き上げる時には、船の艫にロープを引っ掛け、ジャッキで引く。船の下には丸太がコロのように並べてある。砂浜に接触して引っ張るには、摩擦が大きすぎるからだ。私は、ある夏の昼間、こっそりその丸太を一本失敬し、浮き輪の代わりに抱えて海に入った。
最初は、二羽三羽ほどだった。徐々に数が増え、左右の岬の岩や松の枝にとまっていた数百羽のアホウドリがすべて私の周りに集った。鳴き声は耳をつんざくばかり。見上げるとドームをなして時計まわりに回っている。空中から見下ろすと反時計回りの白い渦だろう。ぐるぐる回る白い大きなビーチパラソル。真夏の太陽をさえぎるほどに密だった。私は、アホウドリの、私から目を離さない無数の目を見た。回転を仰向いて見ていると、自分が逆方向に回転している錯覚に駆られ、宇宙飛行士もかくやと思われる浮遊感覚を促された。恐怖と喜びと、どちらが強かっただろうか。
私はこの経験を、ネヴァーランドで、主人公がバルサにつかまって湖を泳いでいく場面に使った。
その浜辺は、のちに津波に襲われ、漁船はおろか、漁船の持ち主も、その家族も、隣人も姿を消した。
アホウドリは今も健在だ。


人種差別問題を起こしているNBAで、選手らが、WE ARE ОNE というロゴのついたTシャツを着ている。欲しいね。各人それぞれの我、は、形式的に同型であり、その意味で、我は、生命界に、一個しかないという私の主張に、相通じるからだ。それぞれ異なる環境条件=記憶想起とは別に、形式として、我々は複数ではなく、単数だ。経験の与えるチャンスによって、我に気づくのは、人間だけでなく、豹やヤモリにも契機はあった。契機だけだった。そこが問題だった。それが、余剰どころではなく、マイナスだと彼らは思った(思ったという過程は彼らの何であったのか?)。
豊かな生活を、限定された期間だが、送っていて、たちまち退廃に陥ったのでしょう。

B級グルメ。炭水化物と塩からなる。胚珠の養分だ。成体にとっては不自然極まる。とてもとてもとても気持ちが悪い。だが、血糖値が低下した深夜、駆け込むのはそれを出す店。がっかりするが、時々、この店、来るね。そんなことをする自分がとてもとてもとても気持ち悪い。がっかりだね。たぶん、自分じゃないだろう。

もともと、私は、自分を信用していない。自分がいないとわかっているから、信用であれ
不信用であれ、その相手がどこにいるのか。おかしな話だ。自分がない以上、信用もない。

宗教すべてを大規模妄言と言っていいのか? 上部構造すべてがそうであるかもしれないのに?
幻想の内に生きていかざるを得ない可愛そうな私たちをいじめてくれるな。
素朴な、古い脳の司る欲望にさいなまれて、過剰な、新しい脳の操る幻想が、撤退を続けるのが、個々それぞれの生なのだから。
この状況からは逃れられない。それを意識すると、私は、何ものかを強く抑制せざるを得なくなる。


故網野義彦

私は、当人に訊いたことがある。そういう民はいたでしょう。だが、当時の民衆の内の何パーセントでしたか? そういう輸送手段はあったでしょうが、当時の輸送量総量のどれだけを担っていましたか? あなたの説は、数値的裏づけを欠いている。
百歩譲って、数値はいいとしましょう。最初の一歩を踏み出すのはいつも少数者ですからね。だが、決定的な歴史変化をもたらしたという論理的脈絡が明瞭でない。証拠がない。類推に過ぎない。物語りではあっても学問ではない。
彼、苦笑いしていたね。
私は今も網野を愛読しているが。


一生は、あっというまにおわる。
すべては幻想であったと、死にかけている君は思うだろう。
違うね。
そのような思い方が幻想であった。
すべてはちっとも幻想ではない。現実事実物理的現象だ。
あなたは、そのコロラリーだよ。
圧倒的な、無情驚異の宇宙を体験できただけでも、幸せと思わなくっちゃ。


病、老、死などという、当たり前のことをなぜ苦と感じるのか?
生が、当たり前でないからではないか? 生は、不自然なのではないか?

夢と芸術の類似性。
そんなことは、いまさら言うまでもないだろう。だが、あなたがあまり聞いたり読んだりしたことがないと私が推量するポイントを、書いておく。
夢の巨細さは、細密絵画に通じる。夢では、遠景を見ていても、細部も見える。ジャングルを遠望しながら、一枚一枚の葉脈も見える。
夢に遠近法はない。ベタに見える。近代絵画の遠近法の採用は、退行であったかもしれない。
鳥瞰とクロースアップの両立、遠近法の呪縛からの解放。芸術は、この二つを、夢と共有できる。
夢は、万人の経験するところだ。その二つの特徴を、芸術家が意識的にアピールすれば、享受者は、まさに、夢見心地になるだろう。未来の芸術家へのヒントになるように。

入江昭氏の著作や発言は、読んだことがある。朝日新聞に談話を出されていた。以下、若干の感想を述べる。「」が入江氏の発言、〈〉が私の感想である。

 「最近の歴史学は大国間の関係、領土問題やパワーゲームだけに注目するのではなく、多国籍企業やNGO、宗教団体などの非国家的存在や、国境を超えた人間のつながりに重きを置いています。環境問題やテロリズムをはじめ、一つの国の内部では理解も解決もできない問題がほとんどだからです」
〈そうなのだが、例として挙げられた多国籍企業とNGOと宗教団体は、それぞれ性格を異にし、対立、敵対の関係をとるばあいもある。グローバリズム内部の国家同士でない衝突を参照しながらグローバリズムを語らなければならない。9.11の意味は、テロリズムと金融資本という、どちらもグローバルな存在の最初の衝突だったということだ。テロリズムが先制した。これは戦争だ! とブッシュは言った。ブッシュをいくら馬鹿にしてもかまわないが、ブッシュのこの発言を馬鹿にしてはいけない。戦争という概念を国家間での限定から解放したからだ。ブッシュが誤解していたようにアメリカが攻撃されたのではない。グローバル資本が攻撃されたのだ。資本は、リーマンショックを引き起こして、アメリカという国家を従属させ、八つ当たり的に報復した。既に今世紀の始まりのときから、グローバル世界での、国家同士ではない衝突が続いている。〉
 「国際関係論における現実主義的な見方は皮相的で、現在の世界ではあまり意味を持たないと考えています。『大国の興亡』を書いたポール・ケネディ氏はたいへん立派な学者ですが、国益の衝突が世界を動かすという史観は非常に一面的です」
〈同感。現実主義的な見方は皮相的である、とは、けだし名言だ。お前はただの現在に過ぎない、と咆哮したのはトロツキーだったが、今や、お前はもはや現在ですらないのである。〉
 「パワーバランスばかりに注目し過ぎたため、90年前後の東西冷戦の終結を予想できた研究者は僕を含めて誰一人いなかった。現実主義は面目を失ったと言えるでしょう。例えば今では、75年のヘルシンキ宣言でソ連が人権尊重を認めたことにより、東側諸国に民主化の希望が広がったと考えられていますし、同時にグローバル経済がソ連体制へ与えた影響も予想以上に大きかった。そんな国家を超えた深いつながりを理解しないと、冷戦終結は導けない。現実主義というのは『文化や社会、思想による世界の変化』を認めない考えなのです」
〈民主化とグローバル経済が、ソ連と東欧諸国に決定的な影響を与えたのは事実だが、この二者は質的に別のものである。とくに、後者は『文化、社会、思想』の三つのカテゴリーのどれに属するのか?
ところで、今後、同じように中国に働きかけることは、有効か?〉
 「トランスナショナルな歴史学というのは国家を超えた関係、例えば移民や文化交流、環境問題、女性運動、さらにはテロリズムなどを研究対象とします。昔から、歴史家が現在の歴史を認識するには30年かかると言われてきましたが、ようやく概念が現実に追いついたのかもしれません」
〈経済が本質的にトランスナショナルであることは、マルクス等が唱えていたことだ。経済が国家統制を脱し始めたからこそ、二度の世界大戦が起こらざるを得なかったのではないか? 概念はあった。無視され続けてきただけだ。〉
 「日中、日韓の間にはシェア、共有できるものがたくさんあります。世界各国が運命を共有する方向に向かっているのに、『中国が侵略してくる』とだけ騒ぐのは、全体が見えていない証拠でしょう。領土だけに拘泥し、東アジア全体の状況を深刻化させているように見えます」
〈だから、領土問題は放って置けばよい。やがて問題そのものが消滅するだろう。目先の利益を是非ほしいなら共有し共同開発し、利益は山分けすればいい〉
 「時代遅れなのは憲法9条ではなくて現実主義者の方でしょう。過去70年近く世界戦争は起きていないし、武力では国際問題は解決しないという考えに世界の大半が賛成している。(中略)。戦後日本が平和だったのは日米安保の核の傘のおかげか、9条のおかげか、という問いに簡単に答えは出ませんが、少なくとも日本自身が近隣に脅威を与えることはなかった。これは経済成長に必須の条件だったわけで、日本こそグローバル化の動きに沿っていた。いまや米国もオバマ大統領の下で軍備を縮小しようとしており、日本は世界の最先端を歩んできたのです。卑下したり自信喪失したりする必要はまったくない。それを今になって逆行させるというのは、日本の国益にもつながりません」
〈日本人は、極めて特殊な環境に、この70年を過ごしてきた。二世代を超えた。そのせいで、やはり極めて特殊な、ほとんど神秘的な、未来を先取りする国民性を身につけた。世界は、仰天しながら、見習っていくことだろう〉
 「本当に日本に誇りを持つなら、当然、過去の事実を認めることができるはずです。現代人の見方で過去を勝手に変えることはできないと、歴史を学ぶ上で頭にたたき込まれました。様々な角度から深掘りして見ることは大切だが、いつ何があったという事実そのものは変えてはならない。例えば日本人でもトルコ人でもブラジル人でも、世界のどの国の人が見ても歴史は一つしかない。共有できない歴史は、歴史とは言えないのです」
 〈これまた名言だ:共有できない歴史は、歴史とは言えないのです。唯一の世界史を我々はいつ共有できるだろうか。それができることが、国家から完全に脱した未来人である証拠なのだが〉
 「これからは、非国家的存在、国際NGOのような人道主義的なつながりがグローバル化の世界にもっと入ってくる必要があります」
〈私は、世界中の若者たちが、NGО、NPОに小さなときから参加し、世界的なネットワークを形成し、国連にとってかわっていくだろうと思っている〉
 「人も社会もいわば『雑種化』していく。これからの世界に希望があるとしたら、そこだと思います」
〈だが、楽観は出来ない。雑種化が、平坦化へと、転落する恐れがある。それをどう防ぐかが問題だ。私は、国家の痕跡である固有言語(母語)と固有文化は、未来人それぞれの個性として残ってほしいと思う。〉

音楽が本質を捉えているか? 言語が出来ていない段階であっても。
問いが間違っている。本質などを介在させているので。
音楽が言語を優越しているか?
私は、そうだと思っている。
音楽が言語に先行した。音楽に促されて、内密な母子にだけ、あるいは、家族にだけ、ではないコミュニケイションが始まった。
音楽が、言語を育んだのだのだろう。社会の成立と、それからの圧はあった。
リズムとメロディーが、文法を作った。
文法は音響的である。文法は歌う。音響のリズムとメロディーが、はるかバッハ以前に、言語に整合性を与えた。
波動に関する物理的な問題だからだ。
物理と合ってこそ、快適である。
パロールだけではなく、文法という古代の民主主義、数千年に渡る合意が、音響的だ。
言語の発生と必要性を促した、私たち祖先の欲求は何であったか、みな忘れてしまったが。

私たちの合意の元がここにあり、これからの合意がありうる根拠ともなる。たとえば、未来、オペラ社会とか(笑)

振り返っての合意は、単に確認に過ぎない。

諸君!、
この一日のうちの、自由になったわずかな時間、それは貴重だ、とても貴重だ、その時にこそ、君の原則に、還れ。


資本の蹂躙に対して何が出来るか。
国家を凌駕し、国家を利用する資本は、バチカンが諸々の国家を支配下に置いたように、ハイパーな立場に立った。
国家が、かつては生き延びて、近代に至ったが、現代では、ポストモダンバチカンには抵抗できない。次々に、そのバチカンのお眼鏡にかなわなければ、破産国家と化すだろう。
貨幣のハウリング(オオカミの遠吠えだ!)を経験してしまったからには。
貨幣が現実に、フリーに暴れたからには。
前からわかっていたことなのに。重石(オモイシ)をつけずに記号だけでやると、こうなるとわかっていたのに。
私たちは、愚かだね。



日記を書く
そんな偽善的なこと!、……偽悪的か?、どっちにしろ、できるか!
まあ、きみ、冷静になりたまえ。問題のありかは、君も気づいたように、善や悪ではない。
日記を書くのはとてもいいことだよ。
なぜなら、その行為が、君の隠していることを追い詰めてくれるからだ。
ありがたや、毎日書きなさい。
日々近づいてくることだろう、君の恐れている事態が。
君が書いているくだらないことは、自らを洗い流すために書かれているとは思わないか? 
私を放棄してくれ、書くことによってあなたとの関係を絶ってくれ、と、書かれたことで、被害と思うものの感想が、聞こえてこないか?
だが、すっきり、余剰物がなくなった君が、固定的に存在するようには、ならない。古代彫刻にはならない。存在すらしない。
秘密を漏らそう。存在は存在しない。ただ現象があるばかり。
あのねえ、ただ、毎日風呂に入ってただ垢を落とすだけだと、言っているにすぎないんだがな。
どこかに流れた垢の、失われた偽の集積だけが、私たちの生だった。

    聖なる牛 汚れた豚
なぜいくつかの宗教は、外から見たら奇怪な理由をつけて、特定の動物を食べてはいけないという戒律を設けているのか? 隠されてきた可能性として、その動物がとりわけ美味で栄養に富んでいるからだろう。愚かな民衆は、ほっておくとたちまちその動物を食いつくして絶滅させてしまう。その動物は、民族が存亡の危機に立たされた時に初めて解禁される貯蔵食料なのだ。それも尽きたら? 自爆テロ、集団自殺、あるいは共食い。

    マゾヒズムの由来
いじめられる者は、いじめている者の、喜色満面さも嬉しげで、充実感があふれんばかりで、自信と威厳に満ちみちているところに圧倒され、是非とも自分でもそれらを体験してみたいと思うようになる。実際に実行してみると、まさに期待通りの、いや期待をしのぐ体験を持ててしまい、以後病みつきになる。そこには、いじめられた時に観察した、いじめる者のあの様子を、真似て演技するうちに、それに憑依されてしまったといういきさつもある。
いじめることの恍惚を我が物にした者は、愛してもらいたい者に、自らをであれ第三者をであれ、いじめる機会を与えようとする。いじめの恍惚をプレゼントするのと交換に、愛を得ようと算段するのだ。第三者を提供する場合、得た愛は、王が臣下に賜わる褒美に似ることもあれば、共犯者の同志愛に似ることもあり、それはそれなりに価値あるものだが、提供者の求める愛とは必ずしも一致しない。自らを提供する場合、自らへの一撃一打の瞬間ごとに、相手の恍惚を目の前で確かめるので、その一撃一打のたびの自らの苦痛が、恍惚と化す。マゾヒストの誕生だ。彼/彼女は、苦痛=恍惚を与えてくれる者を求めてさ迷うことになる。

    司馬遼太郎
司馬遼太郎は歴史評論家だった(歴史評論というジャンルは不確定的だが同名の雑誌はある)。私は司馬の評論はなるべく読むようにしていたが、小説は余り読んでいない。司馬の作品に限らず、歴史小説という本来的な語義矛盾を私が克服できなかったからだ。
司馬は、理念が日本の歴史で何らかの役割を果たしたことはないと主張し、自らも理念を嫌った。役割を果たしたのは、隠れた英雄的個人達だった。儒教は日本には根付かなかったと言い続けた。その代償として、日本人の変わり身の早さ、節操のなさに慨嘆せざるを得なかった。近代以降の対外戦争が、理念なしで説明できるか、悩んだ。そのあげく、自分が参加した戦争をテーマにした歴史小説を、ついに書くことが出来なかった。

    マッチポンプの典型例
W・ブレイクは、道徳が、道徳に反するという理由で罪を作り出し、その罪を犯した者を罰したり殺したりして、罪を成敗してきたと、道徳を断罪した!(だから、すべての罪は許される、などという人間が出てくると、善も悪も区別がなくなり、道徳としては出る幕がなくなって、大変困る。そんなヤツは十字架に杭でハリツケて殺さねばならない。日本にも、似たようなことを言った人間がいた。流されはしたが殺されなかった。曰く、善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや)


この世が仮象だと思うのは、倒錯である。この世だけが実体だ。自分は唯一絶対かけがえがないと前提にしているから、この世が仮象に見えるのだ。そう思うあなたや私こそが仮象である。
自分が仮象であるという意味は、センサーがセンサー自体を感知するという回路が自分であるから、実体とは言いがたいということだ。ただ、この回路は生命という独特の現象の辺縁に発生した。生命は環境に適応しながら、進化してきたが、生命の発生そのものが、或る時期の地球に対する物質の適応だった。(この適応には、我がことながら、いや我々がことながら、いや生命自体がことながら、いや物質がことながら、驚嘆する)従って、生命もまた実体だ。その辺縁でハウリング(フィードバック)というバグが起きているに過ぎない。多分このバグが全体を滅ぼしリセットするだろう。ハウリングから脱却した新たな、というよりは原始的な人々が、宇宙の真実を認識し、みんなに伝えれば、なんとか回避が可能かもしれないが。回避可能の時とは、みんなが、そうか、こんなこと、馬鹿馬鹿しいんだ、と悟る時だ。

自分という回路は、いわば矢印が湾曲し、弧を描いて矢の先が矢の元につながり、自らの尻尾を呑み込むウロボロスの蛇をなしている。自己言及とは、この回路の成立後に、それを逆方向にたどって引き起こされる。身体では、神経の伝達方式は一方向的なので、外界に対しては、感覚神経と運動神経が独立に並列している。自分という回路は自己言及を考慮に入れると双方向的であり、上下線が独立している証拠はない。むしろ上下線の混線が多くの悩みの種を生んできた疑いがある。
この回路をほぐしてまっすぐにすればもはや自分ではないのだが、それでも自分はあるという謬説が二通りある。ひとつは、戻した矢印の元に自分があるという説。もうひとつは、戻した矢印の先に自分があるという説。両者とも間違いではあるものの、より興味深いのは、後者だ。主体幻想から抜け出しかけているからだ。

安西って、どこにいるんだ? と授業中教授たちからよく聞かれた。試験で一番だったことが、いつもではないが、あったからだ。今は、どこにいるんだと聞く人などいない。時々愕然とする。

氷上英廣氏。私のドイツ語の先生だ。西欧人かと見まがうような面相の方だった。ニーチェを語りあった。ニーチェが梅毒だったのは知っていた。
中島敦とは、一身同体ほどの仲良しだったそうな。久しぶりに氏の翻訳を今読み終えたところだ。

全土の空襲の果てに、二度の原爆によって、壊滅状態に陥ったのが日本だ。戦争をすればこうなる。世界に訴えよう。実はそういうことは世界の方こそがよくよく知っていることだが、日本のナイーヴさにはそれなりの訴える力がある。
被害者意識で訴えるのではない。共犯意識で訴えるのだ。
戦争は共犯。相手あってのこと。やられたと、いくらいっても、やっているのだ。
何でこんな当たり前のことを、わかっているのに、やめられないか?
答。あることを達成するためには、人の生命を犠牲にしてもいいと、敵でも味方でも、圧倒的多数の者が思っているから。
この、意識だけがかかわる前段階で、既に共犯的である。