高校一年生のときに、ヒッチハイクで京都まで行った。

金閣寺を訪れると、閉園間際で、観光客はいない。

それどころか、寺の坊さんたちがいない。

私は、寺の入り口で、見学はかないませんか、とおらんだが、こたえがない。

私は、靴を脱いで上がった。

デブの足利義満の木彫がある。

金閣寺の、実に細密なミニチュアがある。

二階に上がる。

天井には、いっぱいに絵が描かれている。

花が咲き乱れ、天女たちが舞う。

私は、三階に行こうとして、階段と梯子のあいのこのようなラダーを上って天井に頭をつけた。

だが、蔽いというか蓋が上がらない。

拒絶されているような感じがして、手と頭で支えて、押しに押したが開かない。

誰か来るかもしれないのも顧みず、両手で天井を叩いた。

諦めて、帰った。

誰とも会わなかった。


三島由紀夫の金閣寺は中一か二の時読んだ。

読んだ時は、批判的だった。

例えば、これは、新古今のまねだな、あの彼のまねだな、論理的なふりをしているだけだな、法学部の学生のレポートみたいだ、こういうレトリックは何も意味してないな、あまりに独断的でとてもとても哲学になってないな、彼我ではないだろう、美学はもっと豊饒でなくっちゃ、等々。


このとき、自分の行動が、彼の金閣寺の主人公がとったそれと、そっくりだったとは、何年かたってから気づいた。、