西村から電話があった。小学生時代ほとんどを同級ですごした男だ。ホテルの前にいると言う。奥のバーで待っていてくれ。
花盛りの思い出話。途中で屋敷もやってきた。
お前の噂はいっぱい聞いているぞ、と西村は私を脅し始めた。
たとえば?
たとえば、玲子。
えっ? 何で知ってるんだ。
彼女の息子と、俺の息子が小学生の時に同級でさ。家も近いから、ず――っと家族ぐるみのつきあいだ。
どれだけ聞いたんだ。
ぜ―ーんぶ。
私は頭を振って、ああ。どうしたらいいんだ。
学生時代、東京の下宿に、彼女が突然やってきた。私はそのときのことを作品にした。

乞食の住処から上流に百メートルほど上ったあたりに、私が三日間だけ同棲した女が住んでいるはずだ。あの後、旦那の任地に十年以上暮らしてから、私の元の家の近くに引っ越してきたらしい。
同じ高校に通っていた。同学年だったが、同級になったことはない。高校生のときは、電話で長話をよくしたものの、デートは二、三度、映画とスケートに付き合っただけだ。フィギアスケートの国体選手だった。中年女性のコーチについていた。痩せた、やや色黒の、清楚な、意志の強そうな女の子だった。眼をきらめかせ、羞恥で頬を真っ赤にさせながら、目標は冬季オリンピックだと打ち明けてくれた。大学四年の秋にその彼女が突然東京の私の下宿に尋ねてきた。
彼氏が、言うてきたとよ。同い年。工学部なんよ。就職先が九電に決まったんよ。結婚してくれっていうてきとんしゃーと。泣いて頼むとよ。いっしょに映画を見るといつもそいつ泣くんよ。そいつの子供、堕ろしたと。そのときも、あいつ、泣いとった。
私は、女の前でやたらに泣く男なんか信用するなよ、とつっけんどんに言った。
その人はいい人なんよ。けどね、いまいち頼りないんやなあ。うち、その人のこと、好きなんか好きでないんか、わからんとよ。
私の下宿は六畳間で、壁を掘りぬいてベッドがしつらえてあった。本棚、机椅子、冷蔵庫、コンポ。申し訳程度のキッチンがついている。トイレとシャワーは共同だった。彼女は、床に横坐わりして、日本酒を飲んだ。私が燗をつけてやった。タバコもひっきりなしに吸った。私は、灰皿を取替え、酒をついでやり、彼女の話を聞く振りをした。彼女はへたり込んで動こうとしなかった。夜も更けて、酔っ払ってろれつが回らなくなりながらも、彼女は、手をたたきながら歌を歌った。体育会系の男子学生が飲み会で歌う卑猥な歌だった。私は黙って聴き、歌が終わってからも感想を述べなかった。
うち、どげなわけで、こげんことに、なったとかいなあ。
彼女は背中を老婆のように丸めてつぶやいた。鼻をすすった。おかっぱの髪が両頬を覆った。あんなに姿勢がよかったのに。私は、あらためて彼女の体を見直した。太り始めていた。色が黒いのは変わりないが、不健康などす黒さだった。動作がのろく、倦怠感が漂っていた。
やがて彼女は上体を起こし、まっすぐ私を見つめた。目の下には隈が出来ていたが、目そのものはきらきら光った。
うち、孕みやすいんよ。いましたら必ず孕むよ。そして、あんたは必ずするよ。うち、帰ったら結婚しちゃうよ。どうする? 

私はさっき、この女に電話をかけた。
「もしもし、畑田玲子様はいらっしゃいますか。私…… 」
「あっはー、覚えてる。忘れはしないわよ。いちおう懐かしいなぁ。銀行員やってるんだって?」
酒とタバコと年齢とでがらがらになった声が聞こえた。わずかに昔の名残があった。東京に来た時は、まだやや低めの柔らかないい声をしていた。私は、しわが寄ってたるんだ声帯が震えているのを想像した。
「あんたも、もうおやじになっとるやろね。まあ、私だって、でぶでぶのばばあだけど。白髪いっぱいだよ、上も下も。あんた、もしかして禿げてないか?」
私は、今の季節の雑木林だと答えた。下品な笑いがかえってきた。
「すぐ近くにいる? なんでいまごろここにいるのよ。ええっ? ある事情って何なの。出張じゃないの? 無断欠勤か。家族にも黙って。どうでもよくなった? ふざけないでよ。ちょっとお、ここいらで首なんかくくらないでちょうだいよね。辛気くさいったらありゃしない。あんた、だめなやつだったんやね、やっぱり。手前勝手な男。相変わらずやね。周りを心配させても平気なんやね。私の判断に誤りはなかったわ。あんたなんかと。まったく、あぶなかったなあ。ざまあみろやね。」
私は、彼女の話をろくに聞いていない。
「気になることがあるんだがな」、と私。
私はずっと気になっていた。今まで、それならそれでもいいかといった不埒な態度をとってきたが、今日のショックのせいで、急に心配になり、いても立ってもいられなくなった。この地にやってきた理由のひとつはそれだ。
「君は、ここに帰ってきてすぐ結婚して、とてもすぐに子供を産んだね。あのあと一年近くたってから、ご両親に聞いて驚いた。ずっと気がかりだった。
僕の子か?」
彼女はかっかと笑った。
「ちょっと待って! 五分後にかけなおしてね、かっはっは」
五分後に彼女いわく、「時期的に少しずれるわね。あんたのじゃあないわ」
「男の子か、女の子か? 正直に言えよ、二十二歳三ヶ月だろ?」
「息子よ。九大の経済の四年。あんたなんかとは大違いの真面目な子よ。九電に就職が決まってるわ。あんた、いいかげんにしなよ」
「会わせてくれたらはっきりする。いや、遠くからでいいから、見せてくれ。見ればすぐわかる」
「わかってどうすんのよ。わかるとなにか変わるの? 万一あんたの子だったらどうだって言うの。あんた、自分以外の人間に真面目になったこと、あった? 無責任で調子よくってさあ。そもそもあんた……」
「もういいよ。すまなかった。見せてくれなくてもいいよ。悪かった。ひとつだけ教えてくれ。
爪を噛むかい?」
「……噛まない」
私は黙って電話を切った。そうだな、私の子供であるかどうかわかったからといって、もうどうすることもできない。そんなことは初めから承知で電話をしているのだった。私は彼女の言ったとおりの人間だ。手前勝手だ。不真面目だ。この電話だって、いても立ってもいられないなどといいながら、もしかするとふざけてかけているのかもしれなかった。実際、彼女の反応を面白がっていたふしがある。こんな時にさえ真剣になれない。再び悲しませてしまった。思い出したくなかったことを思い出させてしまった。いや、それすら私の傲慢か。単に怒らせただけか。けれど、単に、とは、いい気な言い草だ! 彼女にとっては単にでは済まないだろう。きりがない。私の人格に対する私の不信感は際限ない。まったく、人を人とも思っていない。昔もそのせいで彼女を泣かせ、愛想をつかされた。彼女は、もしやというかすかな希望を持って東京に来たのだったのに。あの時彼女は真剣だった、必死だった。ところが私は飛んで火にいる夏の虫とばかりに弄んだあげく、追い返してしまった。まったく悪い男だった。