高校生の私は、母を襲おうとして、寝室に侵入した。

仰向けの母は、首を左右に振りながら、ダメよ~ダメダメと、つぶやいた。



近年流行った永遠の零という映画は見ていない。

それの緩い関連で思い出す。

世紀の遺書という本を読んだことがある。

戦犯で死刑になった者達の遺書遺言集だ。ほとんどが,庶民の男達のものだ。赤紙一通で、召集され、結局BC級戦犯とされて死んだ。

その一人が、書き残している。

お父さんは、もうすぐ、夜が明けるか明けないうちに、死にます。時間が迫っています。だが、お前達に言い残す立派な言葉を書けないでいます。お願いだ、どうか勉強してください。お父さんは、勉強しなかったので、今このとき、お前達に、立派な言葉をちっとも書けない。なんということでしょう。お父さんのようにならないでください。どうか、お願いだ、勉強してください。



私たちは、認識論も形而上学も、自然科学に解消されたことを認めなければならない。いやならいやである理由を、論理的に述べよ。 

勃興した自然科学からの旧来学批判が現代哲学だ。それ以外の哲学はない。


自然科学が技術を生む。文明を生む。文化が発生する。私達の未来が想定される。繁栄と衰亡。期限はだいたい分かるでしょう。私たちはミスを犯す。


ただ、自然科学がナイーヴなので、それにたずさわる者らがナイーヴなので、自然科学自体が、自己否定のきっかけを、つかめない。更にもう一度の、コペルニクス的転回を出来ないままに足踏みしている。



自己を味わうためには、何もしてはならない。

何かをすると、夢中になったり、それこそ我を忘れたりするからだ。

過剰に発達した人間の脳が、対象を失ってしまって、しょうがなく、脳自体を対象にすることから、自己が発現する。

草津の湯に浸かって、うううううと唸るのに似て、行き場のない脳の熱が、自らに浸透してくる。ああ、この充実よ。

この境地に嵌まると、困ったことになる。そこから出てこれない。端から見ると、ただの怠け者だ。



私は思う、ではなく、私を思う、ゆえに、私は存在する。

私を思うの私は、まだ私になっていない。それをやってしまうと、結論を問題解答中に使っているのでミステイク。私を思うことをまた思うという回路が発生した。そのような、きりない自己参照回路が、過剰な脳の増殖のせいで発生してしまった。その回路を私と定義するのが妥当だ。

自己を参照し続けてやまない狂気に陥っているのが人類だ。


もしかして、この回路を一周するのにかかる時間が、時間の単位になっているのかもしれない。



私流の私(我)の定義。

我思う、ゆえに、我あり、とは異なる定義。それは、簡単だ。

私とは、将来、死によって打ち切られるすべての事情である。


私とは、死によってしか限界付けられない。私を絶対的だと見做せば唯我論に陥る。私を相対的どころか、問題視する価値がないと見做せば、自然科学者か仏教徒になる。






小児体験と血縁と家庭の不幸は、フロイトが鋭意、解明し始めたので、秘密の、個別の問題から、社会の大問題となった。その問いかけを、我々がなかなか今でも否定しきれないのは、潜在意識という対象が翻訳に翻訳を重ねて、現代の脳科学や生物学に伝わっているからだ。

コギトの意味での意識に対して、潜在意識を意識せよと唱えたのは、ほとんど反近代であった。

それ以前は、問題は、秘密でも個別的でもなかった。脳科学や生物学が持つ一般性とは極端に異なる、風俗の一般性が、秘密や個別の居場所を奪っていた。

かつて、最下層民には、家族も家庭もなかったので、不幸を意識できなかった。その時代がもしかしたらよかったのかもしれない。誰が生んだわからない子が、慢性的な飢餓に陥っている共同体の喜捨で、かろうじて生きる。衛生状態が苛烈を極めた当時、繰り返し繰り返し死ぬか生き延びるかの選択を強いられるが。喜捨する大人も元はそんな子だった。

世界で最も暮らしやすい黄金の国で、子供を抱いて舐めるように育てる日本人には、想像を絶するだろう。



子供達が一定程度の年齢に達したら、家庭は解散するのが当然だろう。役目は終わったのだから。

若い日の、子供達の母親への愛情も、役目(ああ、役目。社会人としての?、いや、人間として、生命としての?)を果たすための一要因に過ぎなかった。錯覚とは言いたくないが。

賢さの程度に従って、親は、そのことを遅かれ早かれ悟る。

さあ、これからどう生きるか? あと何クール生きられるか。

で、子ともたちとはお別れか? やや濃い大人同士で付き合えばいい。優先順位が高い友である。それはこちらの勝手であるだろうから、相手の思惑には従がおう。



一生重力にひきつけられ、いわばその奴隷として、生存を条件付けられた我らを憐れだと思う。パースペクティヴによる認識の歪みに加えて、重力のそれが認識を更に歪めるのだから。宇宙飛行士たちの体験談がどれほど我々を解放してくれることか! さらに、パースペクティヴから解放してくれる場を与えられたら、我々は、なにするかわからん。

多分、宙に踊るだろう。



宇宙飛行士の話としてよく参照されるのは、人工衛星から見た、青く、もろそうな地球に、国境はなかった、だ。国家を相対化するのに、これほどいい話はない。

では、あったのは何か、見えたのは何か。

自然現象と生き物が見えた(万里の長城等々、現時点では人工物もたくさん見えるが)。生き物はただ一種だけが見えた。勿論個体ではない。類としての人類である(それ以外は少な過ぎて見えない。食用動物は檻の中だ)。動向は、特に夜間に鮮明である。群生するホタルだ。あっちこっちに集結して輝く。その何百倍ものダークマターが、周りを取り囲んでいるままに。

輝きがいつまで続くかは神のみぞ知る。神は輝きも暗闇も同時に見ているだろう。なにせ、神は、定義により、お見通しなのだから。



無矛盾な概念、あるいは概念同士の結合は、即座に存在するという事態は、数学の世界では当たり前だ。私は、このことが、存在の乱立を引き起こし、数学を自家中毒(神学化)に陥らせるに至ったと思う。こういう事態は、数学の世界でだけではなかったが、数学が現在に至るまで根本的な批判によって崩れることはなかった。ひとえに、その有用性によってだ。



数学的な存在とは何か。

無矛盾を構成できるほどの、人工性を持った概念、結局は自然言語ではない言語、を前提にしているのだから、いわば、無矛盾を予感して作られた言語を認めた上での話しなのだから、無矛盾だからといって、本当は、存在するかどうかは、分からない。では、存在の意味は何か。リアリゼイションだって? リアルとは何か。その無矛盾な整合さが適応するような環境であるっだって?。

諸君、このような議論の流れ、倒錯であると、思わないか?

神学、形而上学、認識論の物自体、その他諸々は、今でも、姿を変えて、大活躍中だ。



無矛盾でありながら、自然界人間界何界においても存在しない典型例は、連続である。昔懐かしいイプシロンデルタだ。つまりは、無限という概念だ。連続は、自然界を描写するための、道具としての比喩である。実自然は有限であり、跳び跳びである。反例は一つもない。長らく舞台とされてきた、時間空間も、また然り。そもそも舞台とその上で演じる配役という構図が間違いだった。

ところで、自然数のステップを、1,2,3、と登っていくのではなく、或る引っ込み思案の男が一歩下がってゼロを踏んだ、ということはありうる。また、ゼロは、空(空であるか無であるかについては大いに議論があるが。たとえば、前者は解釈であり、後者は、拒絶である、とか)を意識化したものともとれる。インドで発見されたとは、さもありなん。しかし、ゼロは、無限大分の1でもある。何界においても無限が存在しないように、ゼロは存在しないとはいかなることか。レシートに打たれた数値にゼロが混じっていないことは稀だ。君が開く預金通帳の右下にゼロがない月も稀だ。ゼロは、日常に不可欠の、概念や記号どころではない、道具だ、手段だ、通告だ。なのに、存在しない可能性がある。確かに、日々、奴隷のようにこき使っていながら、誰もその裸身を見たことがない。


無矛盾の存在を現実化実体化する際、私たちは私達の錯覚を利用する。錯覚で生きている私たちはその利用(ほとんどが無意識的)に長けている。

錯覚を駆使してもうまくいかないときに、その存在を、彼岸とか物自体とか沈黙すべきだったものとか酸っぱい葡萄などと言う。



ベタな事実。生命の最前線、その専制者人間の最前性は、科学と芸術の最前線であり、これが躓くと、遡行して、生命が躓く。躓くと、なまものだもの、すぐ滅びる。



意識なんかがなかったなら、悲しみはなかったのに。

あっ、同語反復。