パリの五月や、日大東大全共闘や、イチゴ白書やが、起爆剤になっての、行動の後、思想が高まり深まった。ところが、もう、いま、その痕跡が、そのつもりで注意深く見れば見つかる程度にしか、残骸としてだけあるにすぎない。

議論が急に絶えた。私たちは、思考能力を失ったのか。



農耕社会が最初の人口爆発を準備した。

麦、米、とうもろこし等が、人を育てた。自分らだけのためにと思っていたのに、予想を超える豊穣。これを食べていれば、うちらだけでなく、子らも太る。ところが、必須の栄養分と共に、大量の炭水化物が体に流れ込んだ。数千年後には、中毒症状が蔓延し、今に至っている。

何より労働力を必要としていた古代社会にとって、労働力の源泉としての炭水化物は、権力の支配下に置くべき、争奪戦の的となった。

古代の戦いが、結局何に促されていたのか、今、観れば、辟易。



東北大震災の時に、自民党が政権ついていたとしたら、民主党の対応以上のことが出来たかどうか。

狼狽は同様であるが、指揮系統の確立には、自民党の方が早かっただろう。素人は順番が分からない。

だが、市民諸君、こちらのほうがいいのか? 救えた人々の数が、自民政権下であったらば、より多かったのか? 指揮系統なんぞ無力であり、自然現象に粉砕されたのだ。反対勢力が無能でよせ集めで想像力も実行力もないと断定しては困る。私たちは、自然と真っ向から対決するか、あるいは、自然と同化するか、左右に分かれていくこの岐路に、またまた立たされている。



骨まで愛して。BONES AND ALL。城卓矢のヒット曲だった。彼が主賓のパーティーでは、ニワトリの丸焼きが出た。



キリスト教を、ギリシャ以来のロジックで正当化し武装するために、数世紀を要した。議論百万回の末、カソリックが巨細神学のでっち上げに成功したかに思えたが、プロテスタントが猛攻を加えた。抗争は熾烈を極め、魔女裁判((拷問の場面)そら、この女は白目を剥いているぞ。愛しい相手を見ているんだ。悪魔を見つめているんだ)、三十年戦争等々の、陰惨な事例をもたらした。この経験からヨーロッパは何を生んだか? 二つある。

ひとつは民主主義。もうひとつは科学。


欲望する機械とは、生命のことだ。

さて、では、なぜこの機械は欲望するのか?

自らは物質から構成されているのに、物質から疎外されているからだ。物質の持つ不変性を欠いているからだ。だから、自己保存を欲望する。自己保存によって物質の持つ不変性に到達したいと願う。物質に対する劣等感。

物質同士の結合が複雑性や洗練度の閾値を越えると、全体が崩壊し始めるので、擬人的にここに書いたような反作用が物質的に発生する。



みすず書房がどういう根拠から翻訳を出すのか、少年の頃から謎だった。ここのところ、みすずの面白い本を何冊か読ませてもらって、あの感じを思い出した。あの感じを共有する少年は、今も結構いるでしょう。あの感じを持続させてくれる目利きを備えて絶やさないでいるとは、さすが、みすず。


あと二十年たてば、日本は、女帝がしろしめす国になるだろう。

彼女は、瀕死の国家を救い、国際社会で特権的地位を確保するための、切り札となる。

西欧風の近代ではない古代王朝を再現してみせ、あえて政治的に振舞っていただく。政策としてでも、そうしていただくについは憲法違反ではない。天皇がみずから行為していないのだからかまわない。解釈は自由である。なにせ、戦後解釈の、そのまたアクロバット的解釈は、歴史的事実としてあるのだから。

世界中の人々は呆れる。しびれる。なにせ、君臨するのは、パミュパミュよりもロボットな超ポップ女王だもの。卑しい恣意的行為なんぞ一切しない。彼女はそうはしない、そうは出来ない、なぜなら、彼女に私はないからだ。国民のロボットだ。国民の意思のもとに、いや、ひょっとすると脱国民的一般意思のもとに、何でもやってしまう。天皇の定義に忠実に。女性米大統領一代目ヒラリー・クリントンも二代目キャロライン・ケネディも、たじたじだ。無理だわ、真似できないわ。

さて、彼女は、いったい、だれ?



戦争で、無辜の市民が爆撃で死ぬのは理不尽だと言う人がいる。理不尽ではない。論理的必然だ。市民が支え、少なくとも許した国家が戦争をしているのだ。敵からすれば、市民が真の敵である。市民の責任を回避できようか。それこそ理不尽な土台を、根本原因を、爆撃で一掃しないでいられようか。

いったいどこに無辜の市民なんぞがいるのか。



谷崎は私の青春の思い出だ。

谷崎が、パターンを操る作家であったことは、極端な例である乱菊物語を読めば推定できる。しかし、それを外れる本性が彼にはあった。横溝正史や江戸川乱歩に通じる探偵小説風な怪奇趣味だ。それが彼の本質である。その証拠は、若書きのかぶれ作品と、途中を飛ばして、晩年のゲロのようなえげつない作品を読めば分かる。私の長年の愛読書でもあるが。それらはパターンで出来てはいない。

今私が飛ばした中間が別の意味でいい。

痴人の愛はともかく、蓼食う虫と猫と庄造と二人のをんなには、十代の頃に読んで、感心した覚えがある。

私の精液がこの世に初めて出たのは、子供が見てはならない映画〝鍵”を、策略を弄して映画館に侵入して観たときだった(京マチ子、中村雁治郎)。子供の私は、その二年前からずっと、鍵を、愛読していた。じわじわ染み出てはきていた。こんな子供、ろくな大人にはなるまい。

彼のどこが立派だったか。

日本人の、雰囲気で伝える、言語以前、テレパシーを、言語化しようとした、近代における先駆者だったからだ。

陰影礼賛でいくらかがんばったが、彼は論理は苦手なので、我々は彼の実作でそれを味わうしかない。

全く異なる、言語以前を言語で切り開く冒険者と、シェイクスピア以来のパターンを操作する保守主義者が、同一個人に共存して、悩みや矛盾を感じない堂々たる態度、その矛盾を追及しないでほっぽらかす、おおらかな、偉大な鈍感さに、私はおおいに呆れる。こんなんでいられたのか!


付記。多くの人が源氏物語を現代語訳していらっしゃる。私はそのいくらかを読んだにすぎないが、谷崎のはもっとも優れているように思う。原文に密着して、なおかつ余裕満々である。最低限、文法的な間違いが極めて少ない。ただし、あの、とめてくれるなおっかさんの彼の、窯変源氏はすばらしい。

英訳の方が分かりやすかったと言った作家が昔いたが、それは、日本語を使うものとしての敗北宣言に等しいでしょう。

……源氏物語そのものがいい、とは、私は言っていない。

或る女性が、ハーレクウィンくさいと発言していらっしゃる。同感。

だがねえ。

不倫の結果生まれた男子を天皇にする陰謀は、体制を覆す意図を持っていたのではなかったか?、紫式部、あなた、何を夢想していたの、お答え願いないか?