鮫にカメラを装填して撮った記録を観た。鮫の視線が左右に周期的に揺れる。直進しているのに、動きが左右対称ではない。キックして、あそびをはさんで、キックして、あそびをはさんで……。クロールにおけるハーフキックのようだ。片足で蹴って、次には、もう片足を泳がし流し、また蹴って……。鮫のキックが右へなのか左へなのか。私が見たのは左だった。鮫はすべてそうなのか、あるいは、偶々彼の個性だったか? 鮫の個性とは何か?
人間精神の中に聳える、言語以前の、いわばカムチャツカ火山群を、表現したい!
リベットから始まる一連の実験結果を正しいとすると(私には、判然としない部分がある)、意志は無意識の特定部分を励起状態にするが、個々の行為を命令は出来ず、無意識があたかも感覚器なしの感覚であり、意識はそれに反応する中枢神経系であるということだ。
意識という言葉が、便利ではあるが実体がないことが、このことからも分かってくる。
砂浜は目を攻撃するかのように明るすぎ、松たちは全員イナバウアー。海に向かってのけぞっている。
小学生の私は、母と妹とともに、父の入院している結核療養所に向かって歩いている。
泥濘と混じっている原油や天然ガスを取り出すために、現在は地上で発生させた高熱蒸気をパイプで地下に送って温度を上げ、溶かし、それを別のパイプで受けて吸い上げている。
だが、地上で無駄な熱生産をする必要はない。地下の熱水、マグマを利用すればよい。熱水やマグマを経由して、固化した石油層に、パイプではなく、熱伝導性の高い金属棒を突っ込めばよい。つまり、火山帯の近くの固化石油層を探せということ。
小型の木造漁船を浜に引き上げる時には、船の艫にロープを引っ掛け、ジャッキで引く。船の下には丸太がコロのように並べてある。砂浜に接触して引っ張るには、摩擦が大きすぎるからだ。私は、ある夏の昼間、こっそりその丸太を一本失敬し、浮き輪の代わりに抱えて海に入った。
最初は、二羽三羽ほどだった。徐々に数が増え、左右の岬の岩や松の枝にとまっていた数百羽のアホウドリがすべて私の周りに集った。鳴き声は耳をつんざくばかり。見上げるとドームをなして時計まわりに回っている。空中から見下ろすと反時計回りの白い渦だろう。ぐるぐる回る白い大きなビーチパラソル。真夏の太陽をさえぎるほどに密だった。私は、アホウドリの、私から目を離さない無数の目を見た。回転を仰向いて見ていると、自分が逆方向に回転している錯覚に駆られ、宇宙飛行士もかくやと思われる浮遊感覚を促された。恐怖と喜びと、どちらが強かっただろうか。
私はこの経験を、ネヴァーランドで、主人公がバルサにつかまって湖を泳いでいく場面に使った。
その浜辺は、のちに津波に襲われ、漁船はおろか、漁船の持ち主も、その家族も、隣人も姿を消した。
アホウドリは今も健在だ。
人種差別問題を起こしているNBAで、選手らが、WE ARE ОNE というロゴのついたTシャツを着ている。欲しいね。各人それぞれの我、は、形式的に同型であり、その意味で、我は、生命界に、一個しかないという私の主張に、相通じるからだ。それぞれ異なる環境条件=記憶想起とは別に、形式として、我々は複数ではなく、単数だ。経験の与えるチャンスによって、我に気づくのは、人間だけでなく、豹やヤモリにも契機はあった。契機だけだった。そこが問題だった。それが、余剰どころではなく、マイナスだと彼らは思った(思ったという過程は彼らの何であったのか?)。
豊かな生活を、限定された期間だが、送っていて、たちまち退廃に陥ったのでしょう。
B級グルメ。炭水化物と塩からなる。胚珠の養分だ。成体にとっては不自然極まる。とてもとてもとても気持ちが悪い。だが、血糖値が低下した深夜、駆け込むのはそれを出す店。がっかりするが、時々、この店、来るね。そんなことをする自分がとてもとてもとても気持ち悪い。がっかりだね。たぶん、自分じゃないだろう。
もともと、私は、自分を信用していない。自分がいないとわかっているから、信用であれ
不信用であれ、その相手がどこにいるのか。おかしな話だ。自分がない以上、信用もない。
宗教すべてを大規模妄言と言っていいのか? 上部構造すべてがそうであるかもしれないのに?
幻想の内に生きていかざるを得ない可愛そうな私たちをいじめてくれるな。
素朴な、古い脳の司る欲望にさいなまれて、過剰な、新しい脳の操る幻想が、撤退を続けるのが、個々それぞれの生なのだから。
この状況からは逃れられない。それを意識すると、私は、何ものかを強く抑制せざるを得なくなる。