なぜ存在であって、非存在、無ではなかったのか。
私もあなたも宇宙も。なぜ、ないのではなく、あるのか。
その問いかけは、とほうもなく重大であるし、どれだけ繰り返されてきたか、その回数は、人の生まれてきた回数の何倍であるだろうか。
しかし、この問いかけが、虚妄である、錯覚であると気づく時がきたようだ。
無がない、と気づく時がきたようだ。存在と無の双対性や相補性は、人類がとらわれた、生活していく上での利便性から抽象した、十万年かけて築いてきた幻想に過ぎない。
近代には終に形式論理にまで結晶化したが、無は、依然としてない。
その証拠に、君よ、無を指し示してみなさい!
無は存在しない!
万物は存在者として条件付けられている(トートロジーではないことを願う!)。困難な頭の切り替えを私たちは強いられている。無が錯覚だったので、存在がただ存在するだけだが、存在を縁取りする無がない以上、存在もまたない。つまり、存在は存在するがあって無きがごときなのだ。これが秘密だ。
対抗勢力の一部が、自らを存在に対する無だと、貶める、あらかじめの敗北に対しては、レベルが異なる問題であり、上記の比喩にもならないと思うので、発言は慎む。
なぜ私が唯一だと思われるのか。私が別個にもう一個、私と共存していないのは、いかなる禁止則が働いているのか。坐る椅子が一席しかないとは、よほど厳しい禁止則が働いているのだろう。
これが間違いだという論も立て得る。
共存しているという主張だ。環境や遺伝子で相違が起きているが、私は全員と共存しあっているという主張だ。個体に分化しているので、パースペクティヴが交差すると相違が見えているという錯覚に陥るが、同型のパースペクティヴであることを、ぐるりと回って重ね合わせて確かめてみるとよい。
私は、この見解を、広めに広めてやるからな。
川の蛇行について。
原始の川の或る二地点間の、川筋に沿った道のりは、距離のパイ倍になる、とアインシュタインが言ったと、ピダハンの著者は書いているが、冗談だな。
1進んだ時に、片方に半円分だけ進み、さらに1進んだ時に、もう片方に半円分だけ進むと、道のりは距離2の、2分の1パイ倍になる。パイ倍ではない。アインシュタインは他の場面でも、目のつけどころはいいが間違えている。それは、ピダハンの著者のような介在者はない場合なので(一般相対論で、計算を請け負っていたゴーストライター、あるいは、共著者はいたが)、当人の発する冗談であったのだろう。
父親が独法を専攻していたせいか、法律からは逃げてきた。
ただし、公職選挙法には、つきあった。
かつて、選挙運動の参謀として、毎日、役所が開くと、選挙管理委員会に出向き、その日の活動が法に抵触しないか確認し続けたことがある。
推していた候補者が、理想を忘れ、どぶ板選挙に走り、無知無教養、普段継続的にものを考えてこなかった習慣をさらけ出し始めたので、途中から敵対してしまったが。
そのせいでさらに法律に対して違和感を持ったかというとそうではない。
私は、司法試験を受ける学生を教えたこともあるので、形式的には知っていた。逃げてはいたが、我慢して教えるくらいは出来たということだ。
このような背景を持って、いま、法に関心を持つ。
なぜかというと、シュミットが顕わにした超法規的事態における権力の実相に、昔から関心があり、その事態が現実化する可能性を近頃ひしひし感じているからだ。
戦争? パンデミック? いやいや。
形而上学は、自然科学に、その内容を呑み込まれ、ほとんどその存在意義が解消された。
しかし、解消されていないひとつのことがらがある。
自然科学が忘れてはならないのは、形而上学的な問いかけである。
自然科学をドライヴするのは、茫洋深遠な、あるいは、単刀直入な、形而上学的な、ワイである。
なぜ。
私達を誘惑する、セイレンの呼びかけ。
なぜ、なぜ、なぜ、なーぜ。
なぜの深遠と直截を、自然科学が目先の必要ごとと堕して平板化してはならない。
ひるがえって、なぜの豊穣な泉として、形而上学を再生するチャンスもありうる。
政治は、科学と同じように、一般理性が働く場だ。(一般理性とは、典型として自然科学領域で動いている脳の働きを指す。あるいは、近代に産出された科学的業績全体を客体=結果とする集合主体を指す)
一般理性だって実は、理念型だが。
どれだけ早く現型、原型、元型にするかは、若者達の活躍による。すべてそれらはまたもや仮説で次の世代に持ち越されるので、方向だけしか今は見とれないが。
政治は、地縁血縁の絆をよりどころに結束する村落共同体とは、次元を異にする。ましてや宗教とをや。
両者を同じと観るから間違いが起こる。同じと観てきた歴史がどれだけ血なまぐさかったか。
反省。
で、反省をすぐさま今の血なまぐさい、紛争の対案としよう。
政治家が、政治行為をしつつ、一般理性への昇華を、民衆に誘うように発言し、その上、みずから有言実行しているか? 少なくともこの傾向性を、誰が、誰らが、帯びているか? 個でも集団でもいるのか?
人類の(あるいは生命の)生存を保証するのは、一般理性か、共同体か?
さあ、最前から、あなた、おわかりのように、両者は、同一である。
ゲームの中では、子供達は、何年間にも渡って(大人になってもやっているヤツがいっぱいいるから、十何年、もしかすると何十年か)、何千何万の人を殺している。この体験(?)は、古典的な倫理を既に覆してしまっている。
自分が殺されてゲームオーバーになる体験も重ねてきた。
輪廻を繰り返し、各回、別の存在となってチャレンジする体験は、なにやら大乗仏教的である。
この無慈悲と、楽観的ニヒリズム(東日本大震災後の状況に対する山崎正和の発言)と、を、前提として、ゲーム世代と語ろう。
その結果は……。
話が早かった、楽だった。
No problem, at all.
多くの子供達は、中学生になるまでに、ゲームで何万人も殺してきているから、躊躇がなくなっている。
ヴェトナム戦争で、戦闘機や爆撃機を操縦していて、墜落し、両足をなくした男が、目を光らせながら、語る。
高いところからやってるぶんにはすごく面白かった。こんなになっても、まだ、また、やりたいね。
リンダ問題
リンダはかつて哲学を専攻し、差別や社会正義の問題に関心を持ち、反核デモにも参加していた。今のリンダについて、どちらがありそうか。
1.リンダは銀行の出納係である。
2.リンダは銀行の出納係であり、かつフェミニスト運動の活動家である。
正しい答は当然1だ。1は2を含むからだ。では、なぜ2と答える人が多いのか。詳細であればあるほど情報の質が高く、真偽の判定により貢献するという原則の誤用(一般には、代表的ヒューリスティック、即ち典型に引きずられているとは限らない、と私は思っている。リンダ問題に限ればヒューリスティックだが)と、確率の高さと特定との倒錯(実際は両者は反比例する)にとらわれているからだ。1を、リンダはなにかである、に置き換えると、2での付け足しに何を持ってこようと、1が正解であるのが、理解しやすいだろう。
では、少し問題を変えてみよう。
1.リンダは民主党支持者である。
2.リンダは民主党支持者であり、かつフェミニスト運動の活動家である。
1.リンダは共和党支持者である。
2.リンダは共和党支持者であり、かつフェミニスト運動の活動家である。
1.リンダは共和党支持者である。
2.リンダは共和党支持者であり、かつ差別主義者である。
等々……
二つの事象が同時に生じる確率を、回答者は、包含関係に注目せず、条件付き確率の誤解に幻惑されている。
文学作品では、一般に、ディテイルの描写をやればやるほど、リアルである(やりすぎはだめだよ)。差異に差異を重ねるほどに、差異をこうむった者の存在確率はそれこそ極小になりかねないが、リアルにもなる(こともある)。差異によってしか我々は、リアルを表わせない。宿命的である。
リンダ問題は、この事情を正直に顕わしている。