年も明けて、今年も益々中国習近平の動向も

気になりますが、、、

かの国を考えるに当たり?毛沢東の事が今更

ながら気になったので…記したいと思います。

 

今回は、かなり残虐な事も書かれていて、

読むのが嫌になるかもしれません?

そういう個所は読み飛ばしていただき

最後に大切なまとめ、それだけお読みに

なられてみてください!

 

その前に、中国の大雑把なそれまでの流れに

ついて触れます↓

 

古代の周という王朝が滅びて以降、春秋戦国時代に

突入した 中国は絶対専制君主による帝国か、もしく

は群雄が割拠したり、各地に国がバラバラな形で存在

して戦争をし合うという、この2つのパターンしか

経験してこなかったのです。 

 

そして、この混迷の帝国、あるいは中国をどのように

秩序ある地域にするかということで、さまざまな人が

知恵を絞ってきました。 その代表的なものが、例えば

商鞅の法治主義であったりとか、法学です。 

 

あるいは孔子の儒学、さらにはその儒学が発展した形の

朱子学というお話をしてまいりました けれども、とにかく

中国という膨大な人口が住んでいて、かつそれまで散々に、

例えば政府で あったり、あるいは地元の官僚であったり、

あるいは地主によって搾取され尽くしてきた人々 というのは、

 

そう簡単に「はい、これで統一中国です」とか言われても

従わないですよね。 だから実際問題として、中国本土から

どんどんどんどん外に逃げて、東南アジアなどに行って 

華僑となる人々が絶えないのはそういう理由です。

 

その中国にいかなる形で秩序をもたらすのか、

現在は中華人民共和国ということで、一応表向きは共産主義の

帝国という形になっております。 ただ、実態は違います。

しかも、かなり変遷してきた、変わってきたのです。

 

では、初代の中華人民共和国という帝国の皇帝は誰かというと、

もちろん毛沢東なのですけれども、この毛沢東が共産主義に信奉

していたかというと、あるいは共産主義に心酔していたか というと、

全然そんなことはないのですね。 ということで、現代にまで一応存続

している共産主義帝国である中華人民共和国の始まりについてお話を

したいと思いますが、

 

つまりは毛沢東について語らなくてはいけないのです。 

これは毛沢東本人が書いているのですが、「道徳の価値は他人の利害を

行為の動機となすこと にあると考える人もいるが、われはそのように思わない」

と、つまり「他人のために自分が動くんですよ。これが道徳ですよ」と、

 

普通はそう考えると思うのですけれども、毛沢東は「われはそうは思わない」

と書いてあるのです。 本人が若い頃ですが、「われらは心ゆくまで満足を得たいと

欲し、そうすることで、おのずから最も有益な道徳律を持つに至り」、

分かりませんね。 

 

つまり、「われわれが心ゆくまで満足を得たいとするなら、それはその通りでしょう」

ということなのですが、ただし、そうすることによって最も「有益な」というのが

ポイントでしょう か、「道徳律を持つに至る」、この有益というのは誰にとって

なのでしょうか。 例えば社会全体ですか、共同体ですか、みんなのためですが、

そうではないです。 

 

「もちろん、この世界には人間がおり、物事が居るが、それらすべてわれのため

に存在するのである」と、本人が書いているのです。 

徹底的な自己主義です。だから、ほかの人々の話なんか彼にとってはどうでも

いいのですね。 ついでに言っておきますと、毛沢東は家族に対しても

めちゃくちゃ冷たかったですからね。 彼が唯一、それなりの家族関係を

持っていたのは母親だけなのです。 毛沢東は生涯に4回かな、結婚して

おりますけれども、奥さんに対してめちゃくちゃ冷たいです。 

 

子どもに対しても、これは1つの例なのですけれども、彼のライバルに

なった蒋介石というの は、彼には蒋経国という息子がいました。 

台湾の第2代総統となる方ですが、その息子をちゃんと愛して、

その蒋経国がソ連の人質になってしまい、その息子を取り戻すために

散々政治的な譲歩をするぐらい、息子を大事にしてい たのです。 

 

つまり、自分の血統を受け継ぐものということで、「蒋介石が善人だった」

と言う気は全然な いのですけれども、少なくとも「先祖から受け継いだ自分の

血統を息子や子孫につないでいこ う」というぐらいの、そういう普通の価値観、

ある意味で縦軸のナショナリズムですが、それは持っていたのですよ。

 

 ところが、毛沢東には全くそれがないのです。 息子とか娘とか、

4回も結婚したからたくさん子どもが生まれるのですけれども、

超絶的に冷 たいですよね。 何番目の奥さんの息子か忘れましたけれども、

 

毛沢東の息子2人がソ連に留学して人質になってしまった

のですけれども、基本無視でした。何にも気にしないのです。 

 

何しろ内戦であったり、長征の最中に子どもが生まれたりしているので、

たくさん亡くなったのですが、全然悲しまない、奥さんの方は母親

ですから悲しむのです。 毛沢東自身は全く気にしない、超絶的に個別化

された男と言っていいのでしょうか。 

 

彼には横軸のナショナリズム、つまり中国人民たちとの同胞意識とか、

あるいは縦軸、つまり「自分は先祖から受け継いでここにいるんだ。

じゃあこの何かを子孫に残していこう」という感覚 が全くない人物です。 

ここまで全くない人物は、私は毛沢東以外に知りません。

 

というわけで、「では、何のために世界があるんですか」「俺のためだ」という、

徹底的なエゴ イズムを持った人物が毛沢東だったのですね。

それには少し歴史を語らなければなりません。中国共産党の誕生です。 

1919 年にソ連で第3インターナショナル、いわゆるコミンテルンが誕生しました。 

 

当時のソ連は赤軍派と白軍派で内戦をやっていましたけれども、それで赤軍である

ボリシェヴィキが有利になりまして、それで 1920 年1月にモンゴルを経由して、

中国との陸路の連絡ル ートを確保することができました。 

 

そしてコミンテルンは中国共産党の設立に動くのですけれども、その時に

「じゃあ毛沢東たち 共産主義者たちを集めて、それで共産党を発足した」

ということになっているのですけれども、 共産党の歴史と実際はそんなことありません。 

1924 年の6月に毛沢東が頻度当時、彼はプータローみたいなものだったのですが、

学生を卒業して何かいろいろな仕事を転々としていたのですけれども、

この陳独秀、彼が本当の意味での中国の共産主義者第一号なのですけれども、

陳独秀の出版物販売書店の店員さんになったの です。 

 

この書店はもちろん共産党、共産主義の文献とかを配布、販売しているところで、

そこの店員だったのですが、別に毛沢東は共産党員ではありませんでした。 

この時点では共産党はなかったのです。

 そして8月、2ヶ月後にソ連の工作員が陳独秀らと図りまして、ここで中国共産党

が創立されることになりましたが、毛沢東は何をやっていたかというと店員さんです。 

 

というわけで、中国共産党の公式の党史で、中国共産党創立は 1921 年となっています。 

なぜかというと 21 年、つまり実際に共産党が創立された、翌年の第1回党大会には確かに

毛沢東が出席しているのです。

 

だからそこが創立だということになっているのですけれども、

実際には 1920 年8月です。 毛沢東は中国共産党創立メンバー

ではありません。 ついでに言っておくと、毛沢東は非常に

不真面目な共産主義者でした。 だから別に陳独秀らのように、

真面目に「社会のために、中国人民のために、共産主義を導入

する必要がある」なんて微塵も考えていなかったのです。

 

 最初は「何かやることないかな」ということで、単に生き延びるためでした。 

それで陳独秀とくっついたわけです。 陳独秀に最初は可愛がられていたのですが、

後で決裂します。 ところで、今度は中国全体の話になるのですけど、

この共産党が発足した頃の中国、中華民国 はどうなっていたかというと、

孫文が初代中華民国の大総統になったのですが、その地位を袁世凱に奪われてしまいました。 

 

孫文はどうしたかというと、ソ連に援助を申し入れたのです。 ソ連に支援要請をしました。 

なぜかというと、ほかに頼れる国がなかったからというのもあるのですけれども、

ソ連と袁世凱が対立していたためなのです。 

 

袁世凱はソ連による外モンゴル、今のモンゴル共和国からの占領を認めなかったのです。 

あそこはもともと清の領土だからいうことで、袁世凱と敵対していたわけです。

 だから、ソ連にとっては孫文に支援をして、それで北伐してもらって、袁世凱の政権を

倒してもらえれば非常に都合がいいということです。

 

では、中国共産党はどこにいったのでしょう。 

「孫文は国民党じゃないか」と、そうなのです。 当時の共産党はあまりにも非力で、

「袁世凱政権を倒すなんて絶対不可能だ」と、ソ連は知っ ていたのです。

 

 そして、この袁世凱が 1916 年に死亡しました。 その9年後、1925 年に孫文も

死亡するという形で、中国は前回の軍閥が割拠する乱世に入っ ていくことに

なるのですが、この頃に毛沢東という人物が表舞台に出てきました。 

 

コミンテルンは中国共産党を使って、ここがすごいのですけれども、

はるかに大きな国民党、 孫文の国民党ですが、それを操作しようと考えたのです。

 

 しかも、都合がいいことに孫文から支援要請がきたというわけで、スターリンは

「われわれが、 ここモスクワから公然と国民党に指令を出すわけにはいかない」

ということで、それはそうです。 そこで、「中国共産党およびその他の同志を通じて、

秘密裏にこれを行なうことにする」と語っているのです。 

 つまり、中国共産党の党員たちを国民党に潜り込ませて、

エージェントとして使って、それで 国民党を操ろうと考えたのですね。 

 

というわけで、コミンテルンは中国共産党員に「国民党に入れ」と、本当に指示しました。 

陳独秀たちは特にそうなのですけれども、彼らは理想に燃えたいのです。 

共産主義の理想に燃えていますから、「絶対嫌だ」ということで、

中国共産党員の多くは国民党への入党を拒否しました。 

 

ところが、実利主義の若き毛沢東はモスクワの戦略に喜んで応じまして、

直ちに国民党に入党 したのです。 コミンテルン代表のマーリンは

「全力で工作にあたれというスローガンに賛成した」、工作と いうのは

「国民党に入り込んで、そこで工作せよ」ということなのですけれども、

「そのスロ ーガンに賛成したのは毛沢東だけだった」と、

コミンテルンに報告しています。 

 

つまり、毛沢東は国民党員だったのです。 これは今の中国共産党が

ひた隠しにしている事実ですね。 

しかし、別に毛沢東は国民党にも共産党にも、別にシンパシーは

全く抱いていなかったと思い ますね。 単に「パワーを持っているのは誰だろう。

ソ連だ、コミンテルンだ。じゃあ、そこの指示に従 った方が自分の権力を

拡大することができる」と、非常に実利的に考えただけでしょう。

 

さあ、この頃から中国の秩序が崩壊してくるのですけれども、

なぜかというと、まさに国民党 が中国共産党とかを受け入れて

しまったからで、国共合作ですね。

 国民党と共産党が1つになりました。 

 

それと当たり前ですけど、コミンテルンから発令される

共産主義的な思想が国民党に入ってい って、

政策を変えていくことになります。

 

 というわけで、国民党中央農民部は 1924 年6月、

農民運動講習所を広州、さらには武漢に開 設しました。 

そして、毛沢東は一応共産党から入ってきて、国民党ということで、

当時は国民党員ですから、 毛沢東らの指導で農村幹部を養成し、

各地に農民協会、農民組合、農民自衛軍を組織しました。 

 

さあ、大変なことになりました。 要は、国民党がソ連式の革命を

目論む顧問の指示に従って動き始めたのです。 

つまり、農民たちを武装させて富農であったり、地主たちを殺していって、

いわゆる階級闘争を始めようとしたのです。

 

 それをコミンテルンが、共産党がやるなら分かるのだけれども、

国民党がやることになってし まったのですね。 

そして、貧農による暴力が一気に噴出しました。秩序が崩壊しました。 

 

各地の農村地帯は騒乱状態に陥りまして、それでも中国人特有の残虐な

弾圧虐殺が始まります。 ここからずっと続くのですけれども、

そして恐怖が中国全土を支配するようになっていったの です。

 

中国の社会秩序は崩壊しました。 さらに重要なのは、この農民たちの

暴動というか殺戮ですね。 しかも全国規模で起きていましたから、

それを見ていた毛沢東は暴力に目覚めてしまったので す。

 

 「そうだ。暴力による恐怖こそが、これが自分の欲求、欲望を

満たす最良最高の手段である」 ということに、彼は気付いたのです。 

最初に毛沢東の文書を読みましたけれども、彼は中国人民のためとか

家族のことすら全く気に していませんでしたから、つまり、暴力に

よって人々が恐怖に陥って、日本人だと「かわいそうな人たちだ」

と思いますけれども、そういう感覚が彼には全くなかったのです。

 

 「ああ、これは使える。これだ」ということで、この毛沢東の態度が

コミンテルン、あるいはソ連、 あるいはスターリンにめちゃくちゃ

気に入られたのですよ。 要は残酷、あるいは残虐ということなのです

けれども、なぜ気に入られたのかというと「それしかない」と、

ソ連も思っていたからです。

 

自分たちもそれをやってきたわけですよね。 中国の共産党員には、

陳独秀をはじめとして真面目な人が多かったから、そんな農民殺戮とか

富農殺戮とか、そういうことはやらないのですけれども、

「毛沢東はやるな」と思ったわけです。 

 

そして、毛沢東の方は毛沢東の方で、「その恐怖を人々に与えていくため

には暴力が必要だ。 その後ろ盾が必要だ」ということで、

ソ連と大接近することになりました。 

 

その後、毛沢東とソ連は時々関係が悪くなったりするのですけれども、

基本的には毛沢東は「ソ 連様、スターリン様」という態度で、

そしてできるだけ楽に人々に恐怖を与えて支配するとい う、そういう

戦略をとっていくことになりました。 

 

さあ、国共分裂です。 これは第一次なのですけれども、1920 年代はじめに

孫文がソ連と結びました。 モスクワ路線を採用した、当初から多くの国民党員は

不満を抱いていました。 全然イデオロギー的に真逆なのだから、当たり前です。 

 

そして、1926 年の1月の国民党第1回全国代表大会、これの 256 人の代表のうち、

何と3分 の1を共産党員が占めていました。 これは党員数が全然違うのですよ。 

国民党の党員数は数十万人、共産党員は1万人にも遠く及ばなかったわけです。 

 

それにもかかわらず、なぜ代表の3分の2が共産党員なのでしょう。 

もともと共産党の思想が国民党に入ってくることに、まっとうな国民党員たちは

めちゃめちゃ 怒っていましたから。 

実際、それこそソ連式の農村革命みたいな方向に行ってしまって、

各地で大虐殺が起きている ような状況になってしまったというわけで、

クーデター的なことが起きます。 

 

1927 年4月6日、北京で官憲がソ連公館に踏み込みまして、

北京政府を倒してソ連の政権樹 立を狙う大がかりな転覆工作に、

モスクワが関与していたことを示す秘密書類を大量に押収し ました。 

 

それで国民党の反共産党、あるいは反ソ連感情が一気に高まって、

ここで国民革命軍司令の蒋 介石が4月 12 日に「国民党の政党を

きれいにしよう」と命令しました。 

 

つまり、共産党員を追い出せということです。 

毛沢東を含む 197 人の共産党員を指名手配することになったのですね。

 ソ連はちょっと困ってしまいました。

 「共産党を使って、国民党を操って」と考えていたのですけれども、

国民党の方が反発してき たのです。

 

 そこが切れてしまったので「共産党の立て直しだ」ということで、

国民革命軍から離脱させた 共産党部隊を中国南岸に向かわせます。

そこで、ソ連から輸送された武器を受け取って根拠地を築いて、

そして国民党と戦わせようと いう作戦を考案したのですね。 

 

毛沢東はその軍事的アプローチに賛意を示しまして、スターリンが

送り込んだ工作員というか、 コミュニストというか、コミンテルンですが、

ロミナージが議長を務める党の中央緊急会議で 発言、これはポイントです。 

 

中国共産党なのですけれどもロミナージが議長なのです。 

要は中国共産党というのはソ連なのです。 そこの緊急会議で発言しまして、

これは確かに毛沢東が言っていたらしいのですが、有名な言 葉ですね。 

「権力は銃口から生まれる」と発言したわけです。

 

ただ、1927 年の時点では、毛沢東は自分の軍隊を持っておりませんでした。

 軍事指揮権もなかったのです。 さあ、どうしたかというと、

これはすごいのですけれども、朱徳であったり、彭徳懐といった、 

まっとうな中国共産党の軍隊の将軍たちがいたわけです。 

彼らの軍隊を無理やり乗っ取ってしまいました。 

 

そういうやり方をしたわけです。 例えば、軍隊を乗っ取ろうとした時に、

もちろん朱徳とか彭徳懐とか、中国共産党の将軍たちも中国共産党の

中央の指示に従っているわけなので、そこからの情報をでっち上げるとか、

当 時はなかなか確認が取りにくかったのです。 

 

今みたいに情報通信が発達してないから、だから「私が司令官に任命された」

みたいな形で乗っ取っていたのです。そういうことを平気でやるのです。 

この毛沢東が軍隊を持ち始めた頃から、中国で残忍な殺戮の嵐が吹き荒れる

ようになります。 

 

 毛沢東はこの発言以降、中国共産党内で権力闘争を繰り広げます。 

もう何でもアリです。誹謗中傷、情報操作、あとはひたすら攻撃するとか、

例えば戦争、戦闘 の最中に足を引っ張って、それで追い込んで責任をとらせるとか、

やりたい放題やりました。

 結果、4年間で事実上の最高実力者に上り詰めることになります。

 

そして組織的に弾圧をするというのです。そういうやり方をとりました。 

お互いがお互いを告発して、それで虐待をしていくという、組織的なやり方を

とったのです。 今までの毛沢東のやり方というのは、山賊的だったのですね。 

「とにかく気に入らない」となったら「じゃあ処刑しろ」みたいな感じで

やっていたのですけ れども、それを周恩来が組織化したのです。 

 

支配は徹底的に恐怖に基づいていました。 これが後に毛沢東によって

模倣されまして、全国規模で展開されることになります。

 

42 年から 44 年に延安の政府運動、国民党の支配地から来た共産党の

新メンバーが本人はもちろん、家族や親類まで拷問されて殺されていきました。

1万人以 上が死にました。 「そんなことを言ったら毛沢東なんてもともと

国民党員じゃないか」というような情報は出ないのですね。 

 

1957 年、反右派闘争、55 万人が辺境へ追放、もしくは死亡なのです

けれども、このやり方も すごくて、まず毛沢東は「言論人の皆さん、

好き勝手に話していいですよ」というようなこと を言うのです。 

「百花斉放です」とか言って、言論人たちが好き勝手なこと言い出します。 

基本的には、当然ですけれども共産党とか毛沢東批判になります。

 

 そして、しばらく経ったら「はい、ここで終わり。反共産党、

反毛沢東の連中は全員捕まえて殺せ」と、こういうやり方を

とったわけなのですね。 

 

そして 58 年、大躍進運動では中国共産党の内部文書によれば、

58 年から 65 年までの7年間 で 4,500 万人が餓死した、

想像を絶するでしょう。 そして 66 年、文化大革命が始まりました。 

共産党研究室の建国以来、歴史政治運動事実によると、420 万人が監禁、

審査されて、172 万 8,000 人余が不正常な死亡者となった、要は殺された

わけですよね。

 

 13 万 5,000 人余が死刑に処されました。 23 万 7,000 人余が武力闘争中に

死亡、虐待だから、拷問をオープンにやるという感じです。 

そして、703 万人余が負傷し、不具になったとされています。 

さらに、1989 年、これは鄧小平ですけれども、六四天安門事件によって、

これはソ連共産党 の政治局が受けた報告によると、3,000 人以上の抗議者、

ほぼ若者でしたが、殺害されたとな っているのですね。 何でこんなことに

なるのでしょうね。

 

 ただ、中国だけではないのです。 中国はちょっと極端だけれども、

毛沢東が極端なのですけれども。 第2地域、つまりロシア帝国、中華帝国、

インド帝国、あるいはイスラム帝国で頻繁に人民虐殺が起きるわけです。 

ただし、インドはイギリスに支配された後はなくなりました。

 

 これはなぜかというと、要はナショナリズムがないためですよ。 国民意識がない、

誰も同じ国民だなんて思っていないですよね。

だから平気で殺せるのです。 これがやはり「同じ国民ですよ」という意識を共有

していたら、こんなに簡単に殺さないでし ょう。

 

 中国人民にとって、他の人民にせよ、政治家にせよ他人なのです。

 だから殺せる、虐待できるわけです。 

特に毛沢東は、このナショナリズムどころか、共同体意識が皆無でしたから、

すごい人物でした。 だから何の愛情もないのですよ。憎しみもないでしょうね。 

 

逆らったら憎しみを持つのだけれども、彼にとって人民というのは、

基本的にはただの駒なのです。 

だから 4,500 万人が餓死したところで、あっそう」なのですよね。

 

「同じ国民だ」という意識が全くない、これが毛沢東なのですが、

「これはさすがにダメだな」と、 文革が終わって、

中国人たちは、特に政治家たちは思ったわけですよ。 

 

文革は、要は毛沢東の相棒だった林彪が「さすがにこれはヤバイ」

ということで、毛沢東の息子が暗殺を図ろうとして、失敗して、

それで逃亡する時に飛行機が墜落して亡くなって、その 後は四人組で、

毛沢東の奥さんの江青とかが中心で続けていたのですけれども、

最終的には毛沢東が死んで終わりました。

 

同胞の共同体意識や助け合い精神もなくされ、共産主義も支配と

しての目的のために手段として利用されていたのです!

こうして、それによって人類史上最悪の大虐殺のひとつとなったのです…

 

申命記17章には

あなたの神、主が賜わる地に行き、それを獲てそこに住むようになる時、もしあなたが『わたしも周囲のすべての国びとのように、わたしの上に王を立てよう』と言うならば、
15 必ずあなたの神、主が選ばれる者を、あなたの上に立てて王としなければならない。同胞のひとりを、あなたの上に立てて王としなければならない。同胞でない外国人をあなたの上に立ててはならない。
16 王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。
17 また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。
18 彼が国の王位につくようになったら、レビびとである祭司の保管する書物から、この律法の写しを一つの書物に書きしるさせ、
19 世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない。
20 そうすれば彼の心が同胞を見くだして、高ぶることなく、また戒めを離れて、右にも左にも曲ることなく、その子孫と共にイスラエルにおいて、長くその位にとどまることができるであろう。

 

 

同胞から王を選び、王は私腹を凝らすために民を虐げてはならず、

妻を多く持って心を惑わしてはならないし…

トーラーを読み同胞を見下したり、高ぶることなく

右にも左にもそれることなく国家安泰となる!

 

その後、ソロモン王の時に繁栄したイスラエル

ですが…申命記に記された如く、従えた国々から

多くの妻を持ち、それ故に子息どうし対立もあり、

分裂の危機になります。

 

しかし、やがてイエシュア之御国では

そのトーラーが破棄されることなく規範となる時が

訪れるのです!