博物館の中に入ったが、まずかんじたことはエアコンがきいていない。
しかし窓を開けた状態でもそんなに熱くは感じないが、扇風機名前に行きたくはなる。
どこの国の戦争博物館、軍事博物館、歴史博物館は時刻、自民族が外国からの敵といかに戦ったかの資料と武器の展示が主なものだ。
ここにはベトナム戦争の10年、あるいはそれ以前のベトミン独立運動の時代からのものがあった。
やはりアメリカ軍との戦いがクライマックスである。
最初はベトコン(南ベトナム民族解放戦線)、そして北ベトナム軍と続いた勝利の歴史が展示されている。
そしてこの展示の中であれっと思うものを見つけた。
日本の反戦運動、ベトナム解放戦線支援運動である。
1967年10月8日。当時の佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止しようと全学連の学生たちが羽田空港へ押しかけようとして、これを阻む警察機動隊と羽田空港の近くで衝突した。
この時初めて学生たちはヘルメットをかぶり角材を手にしていた。
この衝突の中で、中核派の京大生山崎博昭が混乱の中で死亡するに至った。
この出来事はマスコミにも大きく取り上げられ、全国の学生たちにも大きな衝撃を与えた。
ここからヘルメットとゲバ棒(角材)スタイルの過激な学生運動が始まった。
彼らは三派全学連、反日共系、反代々木系、ないしは過激派とも呼ばれ、その後数年間続くベトナム反戦闘争、東大日大などの学園闘争の主役となった。
そして1968年、69年に最盛期を迎えた。
ベ平連、これも懐かしい。
過激派セクトに属するところまではいない一般学生をベトナム反戦、平和運動でまとめ上げたのがこのべ平連であった。
新宿駅西口地下広場(その後通路と言い方が変わった)での反戦フォーク集会が有名だ。
これは過激な手段をとらず、街頭でのデモが中心であったが、1969年、1970年で最盛期を迎えた。
1970年には日米安保条約の改定があったからだ。
このベトナム反戦運動と学園闘争は、自分もこの時学生だったので、思想や生き方や将来に大きな影響を与えた。
でも今振り返ると正直何も残っていない。
今では社会で話題にもされない。
自分には学園で仲間と走りまわった楽しい(?)思いでしか残っていない。
行ってみれば良き青春の思い出だ。
結局はそんなものだったか。
先日引っ越しに伴い、その時まで押し入れの中に持っていたこの当時のビラ、新聞、書籍、印刷物などの大部分を焼却処分した。
あのことが歴史として語られることはないと思ったからだ。
あの闘争にかかわった多くの人はどうしているのだろうか。
もう80歳になる。
それだけが気になる。
しかしこの一連の過激な闘争で学生、機動隊を含め、内ゲバ、衝突などで300人程度の死者を出している。
べ平連の展示を見ながらこんなことを思い出した。