善光寺は長野市の始まり。江戸時代には善光寺平(長野盆地)は広いが、善光寺周辺には当時も参拝と観光の名所なので、門前町はあったが、周囲には村が少しあるだけだった。
人が集まったのは県庁がおかれた明治時代になってからである。
長野県には有力外様大名がなく、江戸幕府の小藩の譜代や旗本の領地がたくさんあるだけだった。
これが今の長野県が統一性がないといわれる根本原因である。
さてどこでもおなじみの門前のお土産店の通りを歩くと善光寺仁王門に近づく。
この日は9月10日だと思うが、右の木がすでに紅葉している。
ちょっと早すぎないか。
まだ猛暑が続いているのに。
山門を入ると善光寺の説明版があった。
善光寺の系列の寺は全国にたくさんあるようだ。
全国に119か所。そしてそれに派生するところも443か所。
これはすごい勢力だが、善光寺宗という宗派はないそうである。
これはどういう意味だろうとちょっと不思議である。
宗派に属さない寺があるとは今初めて知った。
しかし次の説明でわかった。
つまり善光寺は伝来した阿弥陀如来を安置するところで、誰それの開祖が切り開いた仏典解釈がその起源ではないということである。
またそのご本尊は秘仏となっており、誰もそれを見ることはできない。
だからあるのかすでに火事で焼けるなどして実際にはないのかはミステリーである。
この説明によれば、本堂の創建は皇極天皇元年。
これも説明が必要だ。
皇極天皇は女性天皇で天皇家の娘であり、夫も天皇である。
この皇極天皇4年目の年に日本の歴史を変える大変なことが起こった。
息子の中大兄皇子とその部下の中臣鎌足らが、天皇の面前で、最高実力者の蘇我入鹿を殺害するという大事件が起こった。
世にいう大化の改新である。
この645年から元号が始まった。
それ以前にはこのシステムはないので、皇極天皇元年となっている。
多分百済から伝わった阿弥陀如来の像が大和ではなく、辺境のこの地に遷座されたのかは説明文にはない。
そして今の本堂は江戸時代の宝永4年(1707年)とある。
これも大事件の年である。
富士山の大噴火である。
善光寺平からも当然噴煙は見えるはずである。
今の富士山の脇腹にある宝永山もこの時に出来上がった。
またその5年前の元禄15年には赤穂浪士が吉良邸への討ち入りを果たしている。
いずれも日本史における有名なときにこの善光寺がかかわっているということに興味がわいた。
この卍も今になって分かったが、これは寺を示す記号ではなく、六画の画数の漢字だそうだ。
その意味は吉祥。万民の幸福を表している。
本堂のすぐ近くにあるが、これは堀か。
戦国時代には寺も武装勢力なので、当然堀を作って守っていたのだろう。
花が咲けばきれいだろうが、こうした古い寺なので、池の水を全部抜く作戦をやってもらえば何かすごいものが出てくるかもしれず、面白い。