被災地については実は2年前の2012年2月、まだ被災から1年もたたないうちに行ったことがある。
その時はまだ津波の爪痕も多く残されており、業者のトラックが各所に山積みにされたがれきの処理に奮闘しているという現状であった。
その時に比べれば、だいぶ整理されたという印象であった。
中には再建後の未来予想図が看板で設置されているところもあった。
この写真は南三陸町防災対策庁舎。
津波襲来の際に女子職員が最後まで住民に避難の呼びかけを行い、殉職されたところである。
3階まで水がきて、屋上にいた職員、避難者にはかろうじて助かった人もいた。
今撤去すべきか残すべきか検討中らしい。
海沿いの国道を南下した。
その途中に南三陸ホテル観洋の前を通る。
被災直後、女将の即断で宿泊客の避難とその後の救援活動を積極的に担った所である。
そこからさほど時間がかからないところで北上川の河口にぶつかる。
その北上川の土手を4キロほどさかのぼると石巻市大川地区にさしかかる。
津波により児童教職員80名近くが犠牲になったところである。

今、事故の検証委員会が開かれ、その結果も報告されている。
いくつかの資料を参考にその時どうすれば良かったかを私なりに考えてみた。
単純に言えば何故もっと早く裏山に避難しなかったかということになるが、物事はそう単純ではない。
まず根底としてここは避難所であった。
津波がここまで来るとは想定されていない。
昭和三陸沖地震の時も津波は来なかったらしい。
この時ここにいた人々のすべてが、津波が来るとは思っていなかった。
従ってこれからどうするかなど結論は出るはずがない。
ここにいるのがベストということになる。
この時校長が不在だったらしいがいたとしても結論がどうなるかは、何とも言えない。
なぜ裏山に避難させなかったのかということはあくまでも結果論である。
付近には適切な高い場所は裏山以外は相当歩かないとない。
その時、市の広報車が津波が北上川を遡上していると知らせてきた。
それではということで北上川の土手の橋のところが比較的高いのでそこに行こうということになった。
そして列を作って山の麓の道を移動中に、土手を乗り越えた津波が前の方から襲ってきたというのが事実である。
生き残ったのは列の後ろの方にいた児童である。
必死に山に駆け上ったらしい。
つまり津波が来る方へ向かっていったことになる。
問題はこの土手に橋のついている高いところに行こうという判断である。
まだそのまま校庭にいて、津波が見えた段階で山へ駆け上れの方が、まだ良かったかもしれない。
しかし体力勝負になるが。
山に登るのは余震が頻発している中、山崩れの可能性がある。
また小さい子には難しいと考えることもできる。
そういうことをすべて勘案した中での結論だと思う。
しかしここにいた避難民も含む人々の中で、地震や津波について知識がある人が一人でもいれば行動は少し違ってきたのではないか。
2004年のインドネシアスマトラ島沖地震。
あの映像を見ていれば、津波は多少の高台でも乗り越える。
従ってここが重要だが希望としては、とりあえず山に登って様子を見ようということになりはしないか。
これが現実に考えられる範囲内でのベストかなと想像してみた。
山の高さは津波から見れば無限に等しい。
この間数分以内。
それでも登る歩みが遅い小さい子には波にさらわれるものもいたかもしれない。
想定外のことに対する人間の思考の柔軟性の欠如。
来てほしくないという願望から来る行動の制約。
先入観や思いこみ。
これは誰に出もあることだが、克服するのは難しい。
飛行機のパイロットには自分の勘や経験より計器、機械を頼れという鉄則があるらしい。
はっきり言って知らないところではクルマの運転の際に、自分の勘よりナビゲーションの道案内の方が正確だったということはいくらでもあった。
前に行ったときには祭壇はこれだけだったが、今は地区住民も含む新しいものが作られていた。
慰霊碑には犠牲者の名前も年齢も刻印されていたが 、圧倒的に年寄りが多かった。
この周囲は住宅地であった。
志津川湾も含むこの地区のリアス式海岸の湾内には牡蠣の養殖と思われる海上ブイが、どこでも多く並んでみられた。
何もなければ風裏に当たる冬の三陸の海は、島と半島が相前後し、青く静かで本当に美しい風景である。
国道をさらに南下し、女川、石巻市内を経て松島に向かった。