1年半前に亡くなった父は軽い発達障害を持っていた。日常の生活も全て母に面倒見てもらわなければ、仕事に行けなかった。家庭内の雑用も何一つやろうとしなかった。居間の蛍光灯が切れても、電球の交換一つ出来なかった。他の人間とも一緒に働く事が出来ず、祖父が家でやっていた自営業を手伝っていた時は祖父の言うように仕事が出来ず、年中祖父に怒鳴られていた。祖父が自営業をやめ、若い頃から車が好きだった父はタクシーの運転手を始め、一人で自分のペースで出来る仕事が一生の仕事になった。
祖父に怒鳴られながら、仕事をしていた頃、私が4才か5才の頃、歯を剥き出して、狂ったようになった父に腕を引っ張られ、肘を脱臼させられた。その前にも何度か怖い思いをしていた私は父の側には寄らないようになった。母も買い物にも必ず私を連れて行き、本当に可愛がってくれていた祖父も常に守ってくれていた。私が小学生になった頃から、自分のペースで出来るタクシーの仕事に就いてからは父はおとなしくなったが、父親らしいことをして貰った事は全くなく、子供心に「この人はなんなんだろう?大きな子どもがもう一人居るみたいだ」と思っていた。祖父は家の事は何でも出来て、大工仕事はプロ顔負けで、動物好きの私に鶏小屋や小鳥のカゴ、ウサギ小屋などをチョチョイと作ってくれる自慢のおじいちゃんで、若々しい祖父が学校に忘れ物を届けてくれた時には、担任の先生が「お父さんですか」と間違えたのだが、実質的にも祖父が父親代わりだった。
  私が中学生になり、実は学校でイジメに合いだんだんクラスの皆から仲間外れにされ出して、辛い思いをしている時に、父親の暴力がまた始まった。父と何かの口論になった時「あなたは私のお父さんじゃない、尊敬もしていない。おじいちゃんが私のお父さんで、私は祖父を尊敬している」と中学生の私は言った。すると、父は父が17歳の頃祖母がどうして亡くなったのか唐突に話し始めた。祖父は日華事変から太平洋戦争と、3度も召集されて、大陸に出兵していた。「俺の女親は戦争中も戦後も片腕が不自由だったにもかかわらず、皆を養うため一生懸命働いていた。爺さんは戦争から帰ってくると、仕事もなく麻雀などの賭け事に夢中になり、家にも帰って来なくなった。お袋は白帯下という病気にかかり、それを放蕩亭主に性病をうつされたのだと思い、猫いらずを飲んで、押入れの中で自殺したんだ」祖母が自殺したという事はその時初めて聞いた。13歳の私にはそれは心臓が凍りつくほどのショックで、今も忘れられない。そんな話を学校でも辛い思いをしていた私にする父がますます許せなかった。父親らしい事など全く出来ない大きな子どもへの憎悪は深まり、祖父への愛情は揺るぐ事はなかった。
父は判で押したように、習慣になった生活や仕事を乱されるような事があったり、私が気に入らないことを言ったりすると、その場に母や祖父がいない時には、殴る蹴るの暴力に時々発展した。私が大人になってからも、私が必ず弱っている時に父は暴力を振るい出すのだった。
そして母が認知症を発症、時を同じくして私が激痛を伴う変形性股関節症を発症し、一番他の家族の手助けが必要な時に、父の暴力がまた始まったのだ。