「新吉さんとお春さん」 |  もともと偏屈男の世迷い言

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【2012-03-12(月)②】

 

 新吉さんは、殆んどの職人気質の人がそうであるように、寡黙な人でした。

 

 廻りの人は、皆んな新吉さんのことが好きでしたが、新吉さんの見せる素っ気失さには少しだけ物足りなさを感じていたかも知れません。

 

 新吉さんは、いつも涼し気な眼差しをしていて、何に対してもあるが儘を見詰めるということでその誠実さを感じさせる人でした。

 

 そしてそれと同じくらいに、「譬え何であろうが深入りするなんてえ野暮な真似は絶対にすまい」というような雰囲気が感じられるような人でもありました。


 

 そんな新吉さんの身近にはいつでも、幼な馴染みの、と言うよりも寧ろ物心付く前からの仲良しさんとでも言った方がいいような、お春さんというとても愛らしい女性がいました。

 

 新吉さんには、お春さん以外にも三人程知っている女性がいましたが、その三人とは会えば挨拶を交わす程度の仲で、特別な思いを寄せている相手ということではありませんでした。

 

 お春さんは、その三人のうちのお夏さんとは違って情熱的で開放的というような感じではありませんでしたし、そうかといってお秋さんのような感傷的で繊細な女性かというとそういう訳でもありませんでしたし、将又お冬さんのように我慢強く地味に黙々と日々を過ごすという風なタイプでもありませんでした。

 

 いつでも誰にでも分け隔て失く微笑みを向けて、人の心を浮き立たせたり弾ませたりする、お春さんというのはそんな雰囲気が生まれ付き身に付いているような人でした。

 

 そして一番のお春さんの魅力というのは、無理に言葉に変えるとすれば、「心地の良い気怠さを誘う掴みどころの失い甘い魔力」とでも言うしか失いようなものでした。

 

 お春さんに微笑みを向けられた人達は、自分の中に閉じ込めてあった「暢気さ」や「怠け心」を思わず曝け出したくなってしまい、その上で「こうなったらもうこれにとっぷり浸かり続けていくしか失いよなあ」と思ってしまう程でした。


 

 不器用で無愛想な佇まいしか似合わないような新吉さんでさえ、そんなお春さんのことを幼い頃からずっと心憎からず思い続けていたようでした。

 

 そして、「自分とお春さんとは、お互いがお互いのことを水と空気のような間柄だと分かり合えているのだろうなあ」と感じてもいました。

 

 お春さんはお春さんで、新吉さんのことを自分が一番安心できる相手だと信じてもいたし、「落ち着いて一緒に暮らすんだったら、最後は新吉さんしかいないに決まっている」と感じてもいたのでした。

 

 けれど、世の中には「いいところが却って仇になる」ってことはあるもので、お春さんの場合はそれが誰にでも変わらずに暖かく接するってことだったようでした。

 

 若葉が深緑になる頃になると決まっていつも、皆んなの「さあこれから奔放さを思いっ切り謳歌しよう」って声に釣られるかのように、浮き浮き気分でついふらふらとどこかへ行ってしまうということが慣わしとなっていました。


 

 まあお春さんが消えてしまったからといってもいつものことですし、それに時季が来れば又戻って来るっていうことも新吉さんには分かっていました。

 

 新吉さんは何も変えること失く、今迄を過ごして来た通りに一日一日を唯普通に送っていれば良いだけのことでした。

 

 新吉さんは、一年もしないうちにはお春さんが戻って来るということを信じていましたし、そうすれば又いつものように自分の近くでお春さんが微笑んでいて呉れるのだということも知っていたのでした。


 

 いつものように今年もそんな時季が近付いて来ているようですが、新吉さんはこれもいつものように、「今年もまたお春さんを迎えることができるなあ、でも折角なら今年こそはいなくならずにずっとここにいて呉れないかなあ」と思うに違い失いのです。