最近授業をしていて思ったこと。
僕はひろく高校1年生から3年生までの授業を担当させてもらっている。
その中で1、2年生はやる気があって、授業をしていても1年生ではおおよそ全員、2年生では6割くらいの人が聞いてくれている。
しかし、3年生に至っては、聞いてくれる人ははじめは3割くらいで、最近では1割を切ってきた。
ほぼ全員が授業を聞かずにしゃべっていたり、寝ていたりすることはもう、珍しくない。
今までは僕は生徒を責めていた。
何で彼らは学校の授業なのに先生の話を聞かないのだろう?
しかし、だんだんと事情を知っていくうちに構造的な問題があることに気付いた。
それは、彼らが英語に対して必要性を見いだせていない、ということだ。
僕が担当しているクラスはいわゆる「推薦組」。新選組みたいでカッコイイ響きだが、実態は受験の必要がなくなって、勉強すること自体にほぼモチベーションをなくした生徒達だ。
そんな彼らに用意されたのは、受験に対しての力を養う問題集。
15課のレッスンから成っており、前半が文法、後半が長文となっている。
まず、各自時間を与えて解かせるのだが、最近はほぼ誰もやらない。
寝ているか、周りと話しているか、お絵かきをしているか・・・
これを防ぐために僕は指名して問題を解かせて前に書かせることにした。
すると、与えられた時間のうちで自分の担当の問題のみを考えて、残りはまた睡眠、遊び、会話に戻っていく。
最近では、当てても全く無視して「わかりません」と言う人が増えてきた。
解説を始めても、説明はほとんど聞いておらず、前に書かれた答えだけを機械的にメモしている。
だから、長文の訳を一文一文することに、こちらもあまり意味を見いだせなくなってきた。それに、解説の間もしゃべっているので大きな声で話さねばならず、喉が痛くなってきて、もう最近はどうせ誰も説明をする意味さえも見いだせない。
そのうちに、一体自分は何をしているのだろうか、と思えてきた。
何しに学校へ来ているのか、と。
教室の中で突如として何も話さなくなった僕を見て、生徒たちは問題集に目を落とした。
キレる前兆だと思ったのだろうか。
でも、そんな器用に立ち回る彼らを目の前に、もっと絶望的な気分になった。
そして、考えていくうちに、これを引き起こしている原因がわかってきた気がする。
それは、教育が民主主義ではない、ということだった。
日本の学校教育の中の多くの科目は生徒のやりたいこと、や実際の世の中で役立つことを反映しているとは言い難い。
特に、経験上、古典や日本史、数学2B、数字の羅列の化学式などが役に立ったと思ったことはない。
学校でやれ、と言われたからやっただけ。
一方で、大学になってから知る必要があった税のこと、お金のこと、パソコンのこと、栄養や健康のことなどは全く教えてくれなかった。
これは生徒や世の中の要求を反映した教育と言えるのだろうか?
ただ今までそうだったから、またそういう試験があるから行われている教育に過ぎないのではないだろうか。
カリキュラムにしても学習指導要領にしても、所詮「誰か」が「一般的な生徒」を想定して考えたものに過ぎない。完璧ではないし、穴だらけだし、個人を見ていない。
それを大胆に「変える」となれば保守的な人間や既得権益がある人間に猛反対されるからそのまま行われているに過ぎないのではないだろうか。
多くの矛盾を抱えて、カリキュラムと教育は独り歩きしている。
このようにして成り立っているカリキュラムを僕は生徒に押し付けることしかできないのだろうか・・・
いや、もう押し付けることさえできていない。誰も聞いていない、ということは、既に静かなる反抗と改革への無言の要求に遭っている。
日本は民主主義国家だ。だから、民意を反映することが求められる。選挙や議会をやっていれば民主主義というそんな制度的なものに納得しているだけではいけない。
ここで大学時代の先生が言っていたことを思い出す。
「教師がいても学びの起きる教室を作りなさい」
本来、勉強とは社会や大人が押し付けるものではなく、生徒の中から立ち現れてくるものだ。
生徒は他の生徒を見たり、一緒に話すことによって自然と学んでいく。
この考え方は衝撃的だったし、多いに納得した。
しかし、その先生はそういった教育が実現するのをその目で確かめる前に退官され、私達に将来を託したんだ。
じゃあ、生徒達が学びたいことって何だろう?
どんなことなら、少しでも一生懸命になれて、楽しく取り組めるんだろうか。
前回の授業ではそれを問うた。
そしてアンケートを実施して、英語でなくて良いからどんなことをやりたいのか書かせた。
すると、わりとたくさんの意見が書かれていた。
もちろん、僕ひとりでその全てを実現できるわけではない。
でも、少なくとも何か学びになることをやっていこうと決意した。
僕はひろく高校1年生から3年生までの授業を担当させてもらっている。
その中で1、2年生はやる気があって、授業をしていても1年生ではおおよそ全員、2年生では6割くらいの人が聞いてくれている。
しかし、3年生に至っては、聞いてくれる人ははじめは3割くらいで、最近では1割を切ってきた。
ほぼ全員が授業を聞かずにしゃべっていたり、寝ていたりすることはもう、珍しくない。
今までは僕は生徒を責めていた。
何で彼らは学校の授業なのに先生の話を聞かないのだろう?
しかし、だんだんと事情を知っていくうちに構造的な問題があることに気付いた。
それは、彼らが英語に対して必要性を見いだせていない、ということだ。
僕が担当しているクラスはいわゆる「推薦組」。新選組みたいでカッコイイ響きだが、実態は受験の必要がなくなって、勉強すること自体にほぼモチベーションをなくした生徒達だ。
そんな彼らに用意されたのは、受験に対しての力を養う問題集。
15課のレッスンから成っており、前半が文法、後半が長文となっている。
まず、各自時間を与えて解かせるのだが、最近はほぼ誰もやらない。
寝ているか、周りと話しているか、お絵かきをしているか・・・
これを防ぐために僕は指名して問題を解かせて前に書かせることにした。
すると、与えられた時間のうちで自分の担当の問題のみを考えて、残りはまた睡眠、遊び、会話に戻っていく。
最近では、当てても全く無視して「わかりません」と言う人が増えてきた。
解説を始めても、説明はほとんど聞いておらず、前に書かれた答えだけを機械的にメモしている。
だから、長文の訳を一文一文することに、こちらもあまり意味を見いだせなくなってきた。それに、解説の間もしゃべっているので大きな声で話さねばならず、喉が痛くなってきて、もう最近はどうせ誰も説明をする意味さえも見いだせない。
そのうちに、一体自分は何をしているのだろうか、と思えてきた。
何しに学校へ来ているのか、と。
教室の中で突如として何も話さなくなった僕を見て、生徒たちは問題集に目を落とした。
キレる前兆だと思ったのだろうか。
でも、そんな器用に立ち回る彼らを目の前に、もっと絶望的な気分になった。
そして、考えていくうちに、これを引き起こしている原因がわかってきた気がする。
それは、教育が民主主義ではない、ということだった。
日本の学校教育の中の多くの科目は生徒のやりたいこと、や実際の世の中で役立つことを反映しているとは言い難い。
特に、経験上、古典や日本史、数学2B、数字の羅列の化学式などが役に立ったと思ったことはない。
学校でやれ、と言われたからやっただけ。
一方で、大学になってから知る必要があった税のこと、お金のこと、パソコンのこと、栄養や健康のことなどは全く教えてくれなかった。
これは生徒や世の中の要求を反映した教育と言えるのだろうか?
ただ今までそうだったから、またそういう試験があるから行われている教育に過ぎないのではないだろうか。
カリキュラムにしても学習指導要領にしても、所詮「誰か」が「一般的な生徒」を想定して考えたものに過ぎない。完璧ではないし、穴だらけだし、個人を見ていない。
それを大胆に「変える」となれば保守的な人間や既得権益がある人間に猛反対されるからそのまま行われているに過ぎないのではないだろうか。
多くの矛盾を抱えて、カリキュラムと教育は独り歩きしている。
このようにして成り立っているカリキュラムを僕は生徒に押し付けることしかできないのだろうか・・・
いや、もう押し付けることさえできていない。誰も聞いていない、ということは、既に静かなる反抗と改革への無言の要求に遭っている。
日本は民主主義国家だ。だから、民意を反映することが求められる。選挙や議会をやっていれば民主主義というそんな制度的なものに納得しているだけではいけない。
ここで大学時代の先生が言っていたことを思い出す。
「教師がいても学びの起きる教室を作りなさい」
本来、勉強とは社会や大人が押し付けるものではなく、生徒の中から立ち現れてくるものだ。
生徒は他の生徒を見たり、一緒に話すことによって自然と学んでいく。
この考え方は衝撃的だったし、多いに納得した。
しかし、その先生はそういった教育が実現するのをその目で確かめる前に退官され、私達に将来を託したんだ。
じゃあ、生徒達が学びたいことって何だろう?
どんなことなら、少しでも一生懸命になれて、楽しく取り組めるんだろうか。
前回の授業ではそれを問うた。
そしてアンケートを実施して、英語でなくて良いからどんなことをやりたいのか書かせた。
すると、わりとたくさんの意見が書かれていた。
もちろん、僕ひとりでその全てを実現できるわけではない。
でも、少なくとも何か学びになることをやっていこうと決意した。