介護体験振り返り
介護。今まではこの言葉はずっと馴染みのない、どこか遠い世界の話だった。介護保険を払い出すのは40歳になってからという知識がある程度だ。しかし、介護と私の距離はこの秋にぐっと近づいたことになる。というのも教職を履修するにあたって介護等体験という科目があり、それを履修しなければ教員免許を取ることが出来ないからだ。
始まる前、場所が浅草であることを知らされた。自分の住まいとは離れていて、かつ下町という響きがあまり好きではなかった私は正直事務所を恨んだ。何故高い交通費と時間をかけてこんな下町まで行かねばならないのか。おまけに一日目は雨が降っており、気分は最悪。乗り換も間違えてしまい、5分遅刻する始末だった。おまけに駅から遠い。機嫌最悪で到着したのが「ふたばデイサービスセンター」だった。当初私は、デイサービスセンターはもっと大規模なものだと思っており、実習生も10人くらいいるものだと思い込んでいた。いったいこの想像がどこから出てきたのかわからないが、私が頭の中で描いていたふたばと現実の目の前に現れたふたばデイサービスセンターは全く異なっていた。まず、入ってビックリしたのは狭いこと。自分の頭の中では学校のように大きなものを想像しており、道を直進していたときに正面に見えていたでかい病院をデイサービスセンターだと思い込んでいた。しかし実際はその手前のアパートの1階がセンターになっていた。おまけにどこを見ても他の実習生らしき姿は見えない。その時、お年寄りが一人私に話しかけてきた。てっきり利用者さんだと思ったが、この人は職員の人だったのだ!これぞまさに老老介護なのではないかといきなり面喰って説明を聞くと、なんと利用者さんは、初日は7人しかいないということだった。いったいこのがっつり少人数の中で今日はどうなってしまうのかというそんな困惑の中スタートした介護体験だった。
このように初日こそ初めての経験でものすごく疲れたが、だんだんと経験とともに慣れていった。特に、私にとっては利用者のMさんという93歳の女性との出会いは大きかった。彼女は93歳にも関わらず、品が良く、はきはきと話し、私に対しても敬語を使ってくれる。以前は会社勤めをしていたようで、そのころの話などを私に語ってくれたり、戦争で東京が焼野原になってしまった話を聞かせてくれた。この「戦争で焼野原になった」というのは、典型的なお年寄りがする話だというイメージが私達若者にはあったが、いざ聞いてみるとそのシーンがありありと頭の中に思い浮かんできて私は思わず聞き入ってしまった。そして、今自分が生きていることが奇跡のように思えてきたのだ。偶然だが、その人の息子も早稲田大学を卒業しているようで、かなり私を可愛がってくれた。この方だけでなく、他の利用者さんの方もとても優しくて面倒見が良い方が多く、少し忘れっぽかったり反応が鈍かったりする以外はふつうのおばあちゃんといった方が多かった。始まる前は寝たきりの老人や悪臭漂う病人に対して決して望めぬ応答を待ちつつ話しかけるような作業を想像していただけに、私はこの介護体験が「楽しい」と思えるようになった。何よりも勉強になったと思えるのは、このデイサービスセンターが利用者さんたちにとって生きていくのに不可欠なコミュニティの場を提供しているということだった。通常、私たちは地力でコミュニティーを形成する。例えば何かを学ぶためのコミュニティ、スポーツをするためのもの、地域社会に根差したものなど普段日常的に所属するコミュニティの数は片手では数えきれないほどだ。実質、コミュニティ無しの生活など考えられない人が多いだろう。学生の場合、クラスやサークルに行けば友人たちの集団に出会えるし、社会人の場合、会社のチームなどは仕事のコミュニティとなる。休みの日ともなれば趣味や学生時代の友人のコミュニティで自分らしさを感じることができる。 以上が私達のコミュニティ感だ。では、今目の前に居る人々にとっての、コミュニティとはどんなものか考えてみた。私が想像するに、それはものすごく手に入りにくいものだが、それと同時に切望しているものに違いないという結論に達した。というのも、人間はコミュニティ無しで精神の健康を保ち、楽しみながら生きていくことは難しい。ところが年を重ねて心配事が増えるにつれて、それを支えてくれるはずのコミュニティはどんどん減っていってしまう。仕事は定年退職、体が弱りなかなか外へ外出することもままならない。また周りの友人たちは先に旅立ってしまう・・・このような状況で、お年寄りたちはコミュニティを失った孤独人になってしまう。夜に暗闇で横になった時に頭の中に浮かぶのは昔の楽しかった思い出、コミュニティに所属していたころの思い出だろう。いくらそれを想えど、もうそれは決して手に入れることができない存在。そんな現実がまた彼らを苦しめることになるのだろう。気が付くと、家族の間でも邪魔者扱いされて、いったい自分は何故生きているのかとそんなことまで考えてしまいそうになるのが日本のお年寄りの現状だ。
デイサービスセンターは、こういった人たちにまさに救いの手を差し伸べていると私は確信した。まず、送迎サービスで、彼女達にコミュニティになる場を与えてくれる。利用者の方々はここへ入ってくるときに、まるで家に帰ってきたかのような安心した顔になるのだ。挨拶は「おはようございます」よりも「おかえりなさい」のほうが良いのではないかと最後のほうは真剣に考えた。そんな時に私達に求められるのは、相手を敬いつつも安心感や親近感を感じさせるような対応だ。ここの職員の方々を見ると本当にそれがしっかりできているように思える。相手は自分よりもいくつも年上の方々、しかし彼らはここにコミュニティのような暖かさと近しさを求めている。一見相反するようなふたつのニーズを見事にくみとった対応の仕方に、プロとはこういうものなのかと毎回学ばされた。私もはじめは
「おはようございます、お茶でございますね、本日も一日よろしくお願いします」 と硬いあいさつしていたのを
「OOさん、おはようございます!今日も顔色良いね、よろしくお願いしまーす」 くらいの挨拶を柔らかい声と笑顔で出せるようになった。そうすると、利用者の方々も本当に美しい笑顔でこちらに答えてくれた。
もちろん利用者の方々は利用者さん同士でもかなりおしゃべりする。よくよく観察すると、私たちが大学等で所属しているコミュニティ内のようにそれぞれに明文化はされていないが役割がある。例えばAさんは話を盛り上げる係、Bさんはいじられ役、Cさんはクールキャラなど・・・ それぞれがその役割を絶妙にこなしながら利用者さんの間で笑いが生まれていくプロセスは下町ならではかもしれないと感心する。もともと下町の人は元気がよくコミュニケーションが得意だ。それが職員さんの盛り上げにサポートされてこのふたばの独特の暖かい雰囲気を作り出しているのだと思う。職員さんに聞いても、「雰囲気の良さと暖かさはウチの良さだから」と胸を張っておっしゃってくださった。帰る時間が近づくとみな名残惜しそうに送迎の車へと乗りこんでいく。利用者さんの一人が
「もしここに泊まることができるならば、私は家に帰りたくない」 とおっしゃっていた。徒歩でここまで来ているその方は、他の人が返ってしまってがらんとしたテーブルを見るのが寂しいという理由でいつも自分が一番先に帰ることにしているという。この気持を私は深く理解することができる。あれは留学が終わりかけの6月上旬。プログラムが終了し、ひとり、またひとりと馴染みの友人たちが帰国する中、私はひとりキャンパスに残った。楽しかった留学の思い出を少しでも長く感じていたかったからだ。しかし、友人たちがひとり、またひとりといなくなるたびに心に大きな穴が開いていくようだった。その大きな穴は心の傷跡となり、私を大きく苦しめた。その結果、毎日酒を飲むこと無しでは寝られなくなってしまったのだ。要は、私の中でそれまであったコミュニティが突然として消滅してしまったことに対するショックは計り知れないほど大きかったということだ。同じ場所にいながら、そこにかつて存在していたコミュニティはもう存在していない。そんな虚無感に日々苦しめられた。ということは、高齢の利用者さんたちはもっと大きな心の傷に苦しめられているに違いない。彼女たちが若いころに心の拠り所にしていたコミュニティはもうそれだけ望んでも手に入らぬ夢の跡となってしまっており、それを思えば思うだけ、もうそれが手に入らぬ虚無感に苦しめられることになる。デイケアのコミュニティはそんな彼女達を奈落の底から救い出している。些細な会話の節々に起こる笑いはそんな心の闇を打ち消す唯一の光に違いないのだ。今見える、確実な唯一の光に。
しかし、残念なことに、彼女たちは自分たちだけの力で自由にこのコミュニティにたどり着くことは出来ない。その背景にはスタッフの方々の努力、またその後ろには国の介護保険制度という仕組みが支えになっている。それらがあって初めて、彼女たちは自分たちらしいコミュニティを形成することが可能になるのだ。これは決して失われてはならないものだと私はこの体験を通して強く思った。
そんな中、対比させられたのは、私が旅行で旅した数々の東南アジアの国々だ。これらの国々では、高齢者の人々が心の拠り所にできるようなコミュニティが自然発生的に存在している。例えば昼下がりの木の下では多くのお年寄りたちがリラックスした様子で何やら話しているのが見えた。時には店先でチェスを楽しんだり、新聞の記事について話したり、それぞれが最も自然体で楽しめることをしていたように思える。少なくとも彼らにはいつも自分たちが行くべき場所、話すべき人たちが存在しているようだった。おそらくこれらの国々では介護や介護施設などという概念は存在しないのだろう、その必要がないという理由で。またこれも私の想像の域を出ないのだが、これらの国々では日本に比べて認知症など精神的な症状を患っている人々の数が少ない気がする。ということはだ、認知症などの精神的な症状は、日本の社会の中の闇が作り出しているのではないだろうか。定年前まではコミュニティの数が多すぎて多忙しかし充実して過ごす一般的な社会人たち。彼らは当然そのような状況に慣れきってしまっている。それがだ、定年したとたんに、自分の所属するコミュニティは家族が中心となってしまい、その中でも邪魔者扱いされるようになってしまえば・・・ 上述したような理由から心の虚無感に飲み込まれてしまうかもしれない。その結果、認知症になり、再び自分が輝けるコミュニティを探してデイケアにやってくる。これらは全て私の想像にすぎないが、ひょっとすればこれはかなり真理に近いのかもしれない。とすれば、日本で認知症が問題になるのは、日本の社会構造や文化に問題があるのかもしれない。日本は高齢化社会ではあっても、いわゆる福祉国家ではない。政治は申し合わせたかのように経済優先の政策を行い、箱物だけは作るが、残りは「なんとかなるでしょ」で済ませている。そうすれば当然人々の中にゆとりを持って生きるという心が失われてしまう。その中で見捨てられるのが、経済優先の社会の中では「不要」の烙印を押された高齢者たちなのだ。利用者さんの中にはかつてたいそう世間体もよく、立派な仕事をされていた方も多い。彼らも、自分が日本にとって大切は「財産」として扱われていた時と「不要」の烙印を押された今の自分自身とのギャップに相当苦しめられたに違いない。本当に幸せになるにはどうすれば良いのか、こういったところにも、この人生の永遠のテーマを考えるヒントは隠されていたのだ。
正直介護体験をしている間は、様々な刺激を受け、様々な考えが頭の中に浮かんでは消えてなかなか冷静かつ客観的にこの経験を振り返ることができなかった。しかし、5日間の体験が終わっても、私には更に2日間(科目履修生なので)同じ施設で実習ができる日にちが残されていた。その間にも、私は海外に行く機会があり、そこでコミュニティの中で幸せそうに生きるお年寄りの姿を見てきた。そこで、初めて自分のすべきことが分かったような気がした。
まず、私がしたことは40分の英会話の時間を作ってもらったことだ。何とか自分が楽しみを提供して利用者さんたちに若々しくいてもらえないだろうか。と思ったときに自分が習い事をしていたときのことを思い出した。英会話、ピアノ、テニス・・・それ自体が大好きかどうかという以前に何か真剣に取り組むこと自体が清々しい気持ちになれる行為だった。そこで、簡単な挨拶、好きな飲み物、動物などを面白い話を交えてレッスンした。ここでは自分が英会話講師として勤務している経験を活かすことができたと思った。利用者の方たちは真剣に聞いて下さり、目を輝かせて英語を発話しようとしていた。何歳になっても、「学ぶ」ということは人間の本能なのかもしれないと経験を通して感じさせられた。職員の方々にもこの英会話は好評で本当にやってよかったと思った。元々英語の教師になりたいと思った目的が、自分が英語の魅力を伝えることで相手に喜んでもらいたいという気持ちだっただけに、これは素直に嬉しかった。
2日目はいよいよ最終日となっただけに、何かプレゼントしたいと思った。人間は忘れる生き物なので、いずれはこの楽しかった経験についても忘れてしまうかもしれないと思い、1人1人にメッセージカードをプレゼントした。極めて簡単な言葉ではあるが、ネパールで大量買いした絵葉書にThank You, お元気で。Kaiの言葉を添えて一人ひとりに渡すと、とても喜んでくださって、中には涙してくださる方までいた。気付くと、私の目にも涙が浮かんできたが溢れることはなかった。そして、終了時間となった時に、私はリーダーの方に一つのお願いをした。
「もしよろしければ送迎に一緒に行かせて下さい」
送迎はプログラムに含まれていない。まして日曜日であることを考えると、帰宅して競馬の結果を一刻も早く確認したいところだが、送迎も含めて「介護、デイサービス」であって、これを体験しないことには介護を体験したとは言えないと考えてワゴンに乗り込んだ。そして、これこそが一番考えさせられる場面となったのだ。 まず、一件目は私を可愛がってくださったMさんの自宅で、Mさんは到着しても家の中に入らずにいつまでも手を振ってみんなを送っていた。ちなみに家族はいなかった。次の方は立派なビルに住んでおられて、苗字を冠したビルは家族が済み、法律の事務所になっていた。家に着くと娘さんが笑顔で出迎えてくださり、玄関からはバリアフリーに改造された家の中の様子が見て取れた。笑顔が特徴的なその方はその笑顔をいっぱいに、手を振って見送ってくださった。次の方は良い人だが、若干影のある方だった。到着した家は、いかにも昔からありそうな小さな古い家で、昼間でも玄関の上には灯りがついており、自ら鍵を開けて入っていったのだが、まるでそこから先には果てしない闇が待ち構えているかのようだった。別れ際、とても寂しそうな顔をされていたのが印象的だ。次は利用者の中では一番明るい下町のおばちゃんという感じの方の家で、そこは町の電気屋さんだった。呼び鈴を押すとはーいという元気な声が聞こえてきて、今はその店のおかみさんとなっているお嫁さんが暖かく迎えてくれて、息子さんもやってきて3人で車に手を振って別れた。 このように7人の方を送迎したが、7通りの人生がそこにはあった。ここまでやってはじめて、介護体験をしたのだと自分を納得させることができたと思う。このように多くの人生、幸せ、闇を抱えながらこのデイサービスセンターというコミュニティは存在しているのだ。
送迎も終わっていよいよ最後の挨拶をする時間になった。私は持参したお菓子の包みを渡して代表者の方に御礼を申し上げた。間を挟んでいるので、随分と長い間ここに来ていたように感じる。もう施設内のだいたいのことならわかるし、介護をしろと言われても基本的なことならできるような気さえした。すっかり馴染みになった職員の方々に今までお世話になったことを言い、これから教師になるために頑張ってくださいなどという励ましを受ける。前回までは必ず、「ではまた明日も宜しくお願いします」とか、「また来週もお願いします」などの挨拶と共にこのドアを開けて外に出た。しかし、今回はもう「では来週もお願いします」という挨拶をする必要はない。観光客であふれかえった浅草の道を通ることも、遅刻を気にしながら早足で浅草寺の横を駆け抜けることもないのだ。最後の最後で、なんだかもうここに来る必要がなくなることに私は寂しさを感じた。最初あれだけ嫌だったことから解放されたはずなのに、解放感は湧いてこずに、むしろある種の寂寥感が胸を突いた。お世話になった気持ちからまた少し涙腺が緩くなる。しかし、ここで涙は見せてはならない。利用者の方々は私よりもはるかに大きな孤独感を抱えつつも、笑顔で見送ってくださったのだ。彼らの態度から学ばなければ・・・
「今まで本当にお世話になりました。よい教師になって恩返しします。」
笑顔で胸を張った私も、気付けばここのコミュニティの一員になっていたのだ。