早稲田大学に新設された大学院である国際コミュニケーション研究科の1期生となって半年。
だいたいこの大学院が持つ顔、またこの大学院が日本社会の何を反映しているのかが見えてきた。
私がここで見たのは全く異なる2つの大学院の顔だった。
国際コミュニケーション研究科は、21世紀のグローバル社会に適応するために、多様な価値観や文化を横断的に「コミュニケーション」という視点を通して考える人材の育成 という大義名分のもとに設立された大学院である。
http://www.waseda.jp/gsiccs/index_jp.html
よって、研究者の養成機関というよりは、母体となっている国際教養学部の延長といったふうに聞こえる。
「国際コミュニケーション研究科では、このグローバル化の時代が抱える様々な問題について、多角的な視点から取り組み、私たちがこれから進んでいく新たな社会に貢献できる人材を世界に輩出していきたいと考えます。」
と研究科長の挨拶にあるように、学問を中心とした研究者の育成を目指すのか、会社や機関で実践的に活躍する人材の育成を目指すのかはっきりとうたってはいない。
では、中身はどうなっているのかというと、そこには、「研究機関」と「職業訓練学校」という2つの全く異なる実態が内在しているように思える。
研究機関という視点でみると、これは通常の大学院とあまり変わりはない。
ただ、授業全体を見渡しても、国際教養学部のように、専門性が明らかに欠けているのは事実である。無理やりcommunication というタイトルを冠した授業が増えたために
economics and communication
などというまるで両方人気があるからという理由でラーメンの上にカレーのルーをかけたような授業が氾濫している。
また、ひとつ屋根の下で英語教育、経済、通訳、政治、芸術・・・という多種多様なゼミが花開いているので、ここからも料理の数こそ多いがひとつひとつはあまり美味しくないファミレスのような印象を与える
日本でもこれほど多くの研究分野を持った研究科など皮肉にも他にないだろう。
必修科目である授業も、私は個人的には好きだったのだが、内容は様々な会社、新聞社、国際機関で活躍する人材を招いてのプレゼンなので、職業訓練学校の色はますます強くなる。
このポリシーが根幹となっていることには仕方がないのだが、ここで一番言っておきたいのは学生の問題である。
フタを開けてみると、おそらく研究科の60%が中国人であるという実態だった。
そして、話を聞いていると、ほとんどの人が中国の大学、もしくは日本の2流、3流の大学を卒業した後にここに来たのだという。
中には日本語学校を経由してやってきた人たちもいる。
そして、目標を聞くと「日本の会社に就職すること」であるという。
関心があることはアルバイト、インターン。
勉強の目的はいかにも見栄のいい学位を取ることにあるようだ。
それは自習室を見れば明らかである。
自習室が混むのはテスト前だけである。研究に専念できる夏休みこそそういったところでこもって勉強するべきだと思うのに、話を聞くと夏は一切勉強していないという人も・・・
だいたいこれは同じゼミの人と話をしていて思うのだが、修士論文を何か嫌なもの、書かなければならないものとして捉えている気がする。
研究に対しても消極的で、「教授がやれというから」など大学院に所属しているものとしては考えれない発言も見られる。
研究やら実験がしたくてわざわざ大学院に来たのではないか?
だいたい勉強が嫌い(だと思われる)人が大学院にいること自体、不思議でならない。
だから勉強のことや専門のことなどについて深く語る友人ができると信じていたのに、今まではおおよそ1人しかそういった友人はいない。
これではまるでvocational schoolではないか?
私が入学した大学院は職業訓練学校だったのか?
そう思うこともある。
指導教員が素晴らしい人で、かつ教育研究科の授業も取っているのでかろうじて私の勉強に対する思いはつなぎとめられている。
しかしはじめは落胆こそいていたものの、のんきにそうもいっていられない。
周りがどんな環境であろうと、研究をする環境はあるのだし、他人は他人と腹を決めてやるしかないのだ。
以上が私の非常に主観的で自己中心的な意見である。これは自分の中の半分でしかない。
しかし、もう半分を混ぜてもっと全体的で中立的に述べると
大学院の姿自体が変わりつつあるのではないかということである。
大学院=研究 というのは一昔前までの話で、他の大学院を見てもかなりやっていることが曖昧なものは多い。
何も修士を取ることが研究者を意味するものではなく、よりハイレベルな教育を受けた証、または自己満足であっても良いと思う。
よりグローバル化した社会の今後のためには職業人を育てる大学院があっても良いのだ。
しかし、大学院である以上、研究のための環境は確保されるべきであるし、就職やインターンばかり進める方針は間違っていると思う。
というわけで、国際コミュニケーション研究科にはこのような二つの顔がある。
二つの顔があることは置いておき、とりあえずは自分のやるべきことをしっかりやる以外に道はない。

だいたいこの大学院が持つ顔、またこの大学院が日本社会の何を反映しているのかが見えてきた。
私がここで見たのは全く異なる2つの大学院の顔だった。
国際コミュニケーション研究科は、21世紀のグローバル社会に適応するために、多様な価値観や文化を横断的に「コミュニケーション」という視点を通して考える人材の育成 という大義名分のもとに設立された大学院である。
http://www.waseda.jp/gsiccs/index_jp.html
よって、研究者の養成機関というよりは、母体となっている国際教養学部の延長といったふうに聞こえる。
「国際コミュニケーション研究科では、このグローバル化の時代が抱える様々な問題について、多角的な視点から取り組み、私たちがこれから進んでいく新たな社会に貢献できる人材を世界に輩出していきたいと考えます。」
と研究科長の挨拶にあるように、学問を中心とした研究者の育成を目指すのか、会社や機関で実践的に活躍する人材の育成を目指すのかはっきりとうたってはいない。
では、中身はどうなっているのかというと、そこには、「研究機関」と「職業訓練学校」という2つの全く異なる実態が内在しているように思える。
研究機関という視点でみると、これは通常の大学院とあまり変わりはない。
ただ、授業全体を見渡しても、国際教養学部のように、専門性が明らかに欠けているのは事実である。無理やりcommunication というタイトルを冠した授業が増えたために
economics and communication
などというまるで両方人気があるからという理由でラーメンの上にカレーのルーをかけたような授業が氾濫している。
また、ひとつ屋根の下で英語教育、経済、通訳、政治、芸術・・・という多種多様なゼミが花開いているので、ここからも料理の数こそ多いがひとつひとつはあまり美味しくないファミレスのような印象を与える
日本でもこれほど多くの研究分野を持った研究科など皮肉にも他にないだろう。
必修科目である授業も、私は個人的には好きだったのだが、内容は様々な会社、新聞社、国際機関で活躍する人材を招いてのプレゼンなので、職業訓練学校の色はますます強くなる。
このポリシーが根幹となっていることには仕方がないのだが、ここで一番言っておきたいのは学生の問題である。
フタを開けてみると、おそらく研究科の60%が中国人であるという実態だった。
そして、話を聞いていると、ほとんどの人が中国の大学、もしくは日本の2流、3流の大学を卒業した後にここに来たのだという。
中には日本語学校を経由してやってきた人たちもいる。
そして、目標を聞くと「日本の会社に就職すること」であるという。
関心があることはアルバイト、インターン。
勉強の目的はいかにも見栄のいい学位を取ることにあるようだ。
それは自習室を見れば明らかである。
自習室が混むのはテスト前だけである。研究に専念できる夏休みこそそういったところでこもって勉強するべきだと思うのに、話を聞くと夏は一切勉強していないという人も・・・
だいたいこれは同じゼミの人と話をしていて思うのだが、修士論文を何か嫌なもの、書かなければならないものとして捉えている気がする。
研究に対しても消極的で、「教授がやれというから」など大学院に所属しているものとしては考えれない発言も見られる。
研究やら実験がしたくてわざわざ大学院に来たのではないか?
だいたい勉強が嫌い(だと思われる)人が大学院にいること自体、不思議でならない。
だから勉強のことや専門のことなどについて深く語る友人ができると信じていたのに、今まではおおよそ1人しかそういった友人はいない。
これではまるでvocational schoolではないか?
私が入学した大学院は職業訓練学校だったのか?
そう思うこともある。
指導教員が素晴らしい人で、かつ教育研究科の授業も取っているのでかろうじて私の勉強に対する思いはつなぎとめられている。
しかしはじめは落胆こそいていたものの、のんきにそうもいっていられない。
周りがどんな環境であろうと、研究をする環境はあるのだし、他人は他人と腹を決めてやるしかないのだ。
以上が私の非常に主観的で自己中心的な意見である。これは自分の中の半分でしかない。
しかし、もう半分を混ぜてもっと全体的で中立的に述べると
大学院の姿自体が変わりつつあるのではないかということである。
大学院=研究 というのは一昔前までの話で、他の大学院を見てもかなりやっていることが曖昧なものは多い。
何も修士を取ることが研究者を意味するものではなく、よりハイレベルな教育を受けた証、または自己満足であっても良いと思う。
よりグローバル化した社会の今後のためには職業人を育てる大学院があっても良いのだ。
しかし、大学院である以上、研究のための環境は確保されるべきであるし、就職やインターンばかり進める方針は間違っていると思う。
というわけで、国際コミュニケーション研究科にはこのような二つの顔がある。
二つの顔があることは置いておき、とりあえずは自分のやるべきことをしっかりやる以外に道はない。
