醸造、それはただひたすら己の中に価値を溜め込み、それが開かれる日を待つことである。

人間が何かに対して価値を置くこと、それが重要だと思えることは実はワインが醸造されてその価値が上がっていくことと似ている。


簡単に手に入ること、選択肢が多いことによってモノの価値は下がってしまう。


以前は万人の憧れであったテレビは、いつの間にか家電業界からも疎まれる不採算分野になってしまい、我々にとってテレビを持っていることは家にトイレがあることと同じくらいの感覚に成り下がった。


車も、私が以前行ったラオスではものすごく貴重なもので、車を持っていることは成功者のステータスである。 


しかし、日本の地方都市に暮らしてみると車を持っていないともはや自立した人間とはみなされず、ブルーカラーから老人に至るまで所有することが可能となっている。


しかし、この文脈において車本体の価値は変わっているかもしれないが、車自体が変化をしているわけではない。


そう、モノの価値は文脈において大いに変わってしまうのだ。







一方、ヒトの価値はどうだろう。

私たちはどんな人を貴重だと思って大事にするだろうか。


それは手に入れがたい存在である。

そして、それを欲する期間が長ければ長いほどそれを貴重だと感じる。


これは、恋愛に例えると非常にわかりやすい。


とある社会学の本に書いてあったことを借りると


自分にとってなかなか手の届かない存在であり、かつその人のことを想う期間が長ければ、その価値は本来の価値をも超えてひとりでに走り出す。


なかなか手に入れがたい存在というのは、代わりが効かないということだ。


まわりに豊富な選択肢がある中ではこの貴重さは現れない。


男性の視点からすると、女性と普段なかなか出会いが無い中で出会った人というのは、日頃から女性との出会いが多い人の視点と比べて価値が増大する。


また、様々なアプローチをかけるものの、なかなか手に入れることができない人ほど、心の中で手に入れたい!という思いが強くなり、価値が増大する。


つまり、普段出会いが少ない中で、(手に入れられる可能性があるが)なかなか手に入れられないときにおいて、その価値はもっとも大きくなると考えた。



この理論を使うと「ああ、そうだったのか」と思うことがある。






そして、別の視点から考えると、


「価値を増大させたいから」敢えて簡単に手に入れられない状況を自ら作り


自作自演でそれを演じることによって、手に入れたい女性の価値を増大させることも可能なのだ。


それは、ワインを醸造することに似ている。


いい味が出て、本当に飲みたい!という条件が整うまで決してあけない。


本当に好きになるまで、決してその思いを伝えずに、もうどうしようも無くなった時に伝えてこそ、最大限の価値を手にした喜びを手にすることができるのではないか。




深きワイナリーは人を誘惑する、しかしまだ空けはしないだろう、最高においしいワインを飲むためにはそれなりの期間が必要なのだ。






っていうか、WBCオランダ代表のクサンダー・ボーハールツめっちゃかっこいい。