先日「親鸞」の弟子の「唯円」が書き残した「難異抄」の中の一つ「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を書きましたが、意味は、善人でさえ清浄真実の世界に生まれることが出来る。まして、悪人は言うまでもない。という凄い逆説的な意味がありますが、これは、善人は日々功徳を積み当然浄土に行くことが出来ると考えて、「弥陀」の他力の本旨に背いているからだそうです。しかし、同時に「薬があるからといって、毒を好んではならない」と言い、悪を戒めていますが・・
この「難異抄」に唯円が、浄土が良いところと聞いて念仏を唱えているが、一向にその浄土に行きたいと思わないがどうしてかと親鸞に訪ねたら、自分もうだと答えています。そして、ちょとでも病気をすると死んでしまうのではないかと心細く感ずるとも、全て「煩悩」のなせる業であると答えていますが、人間来世を信じて生きることのむずかしさ、宗教はやはりまやかしなのでしょうか?。
しかし、現実が厳しければ厳しいほど来世の「幸」を望みますが、これは為政者に都合がいいかもしれませんが、例の問題国「北」に住む人々は宗教も禁止され一体なにを望みに生きているのでしょうか、また、厳冬の冬が来ますが罪のない多くの子供たちがまた寒さでバタバタ死ぬのでしょうか。