昨日、地下鉄丸の内線に乗っていたら車内放送で、今後車掌が行っていたドアの開閉は運転手が行うことになりますとのこと、一瞬わが耳を疑った。つまり、4月?から地下鉄は運転手一人で運行することを乗客に知らせていたわけです。
確かに、東京にある新交通システムのゆりかもめや多摩モノレールなどは車掌どころか運転手も乗らないシステムとなっているが、丸の内選のような混雑する地下鉄も一人勤務と聞くと驚くばかりである。そして、現在100名ほどの車掌さんがいるらしいですが、彼らは、駅構内での接客などの業務につくことになるとの話でした。
ここ数年、あらゆる職場で勤務形態が変わっているが、その狙いはずこも人員削減で人件費を抑えることであり、ご存知のようにトヨタやキャノンのような世界的企業ですら派遣社員で人員を調整している時代でもある。
それでは一体人はどこで働き家族を支えたらいいのだろうか、計画経済であったはずのソ連は崩壊したし、中国もどうも貧富の差と失業がありすぎて国民は幸せそうでない、自由主義の大国であるアメリカや日本も多くのホームレスを生み出し自殺者を出し続けている。
旧約聖書では食べ物が何年も空から降りてくるが、しかし現実では職が、収入がなければセーフティネットといわれる生活保護を受けるしかない。
今、日本で生活保護を受けている世帯は160万世帯とか、かかる予算もら3兆円にも及ばんとし膨大になりもう限界とのこと。人間だれでも感謝され、尊敬される職について生きたいと考えていると思うが、この数字には働く場を見出せずにいる方々の嘆きがつまっているような気がする。職を求めて彷徨する数万の人々、これも旧約聖書に由来するといわれる「いかりの葡萄」を思いださせる。
20世紀は戦争の世紀と言われたが、21世紀は一体なんといわれる世紀となるのだろうか、彷徨の世紀とでもいわれるのだろうか。