今日3月15日は日本とオランダとの通商関係を結んで400年とか、ご存じの通り、長崎出島での交易であり、江戸時代は西洋からの文物を知ることの出来る大切な国であったる。しかし、西洋の国々と最も古い関係にありながら、日・蘭ともそれほど親近感をもっていないと感ずる。これは、特に第二次世界大戦までインドネシアを植民地化していたオランダを日本が武力解除したことで、両国民に怨嗟の感情を生んだことが大きな陰を落としているのかもしれない。このことは、戦後、昭和天皇がオランダを訪問した際は大きな反日運動が勃発したことでも示された。
一方、インドネシアとわずか50年しか経ていないが、日・イ関係はきわめて友好的に経過してきた。特に、オランダからの独立戦争でインドネシア軍に参加して戦った元日本兵は900名ほどいた(500名が戦死・行方不明、100~200名が帰国、彼らの中には軍人として最高のゲリラ勲章を授与されたり、死後、カリバタ英雄墓地に埋葬された人も多い)。
インドネシアが戦後親日的であったことには、このように、名もなく異国の地でインドネシア独立のためにオランダなどと戦った日本兵達がいたことが背景にあり、また、独立後インドネシアを支配したスカルノ大統領も大いなる親日派であったことも影響したと考えられる。
なお、インドネシアの独立戦争で最も活躍した日本人として、熊本県出身の市来竜夫氏と山形県出身の吉住留五郎氏がいる。両氏とも元新聞記者で、相当なインテリであったことが共通しており、市来氏はインドネシア陸軍士官学校教官、師団長顧問、国軍参謀本部、日本人部隊特別ゲリラ隊隊長となり、1949年1月東部ジャワでオランダ軍との戦闘で銃弾を浴びて戦死、享年42歳であった。
また、吉住氏はオランダに対する徹底抗戦による完全独立を唱え「インドネシア独立戦争の戦略・戦術」を著し、転戦中に1948年8月東部ジャワの山中で戦病死。享年37歳であった。
今、日本、オランダ、インドネシア3国とは、まさに恩讐の彼方に人流・物流が盛んであるが、過去には、激しい争いがあり、植民地化された東南アジアの独立のために、もてる全ての知能と命を捧げた日本人がいたことを知っておいてほしい。