Sheep Controllerの歌詞の世界観♪
先月、大好きだった祖母が亡くなった。
90才だったから長生きしたと言えると思うが、人間はいつか死ぬと頭ではわかっていても、やはり心のどこかで自分にとって身近で大事な人は永遠に生きていている・・・という願望があるのか、臭いモノにフタをするように現実を無視したくなるものである。
しかしやはり現実は、嫌なものを見て見ないフリするわけにはいかなかった。
忙しかった両親の代わりに、わたくしに言葉を教え、数学を教え、戦争の実体験を繰り返し教えながら育ててくれた祖母と言葉を交わすことは永遠に出来なくなってしまった。
親戚一同が会して悲しみに暮れる祖母の葬儀の中、わたくしは「やっぱり人間て死ぬものなんだな~」とごくごく当たり前のことを、さも今思いついたようにボーっと考えていた。
いや、噛み締めていたといった方がしっくりくるかな?
ご存知のように自然界の生き物は絶えず生存競争をしており、なるべく生き長らえようとしている存在だ。
言ってみればエゴの固まりである。
人間が一生懸命勉強するのも、仕事をするのも、体を鍛えるのも、他人と仲良くするのも、嘘をつくのも、ケンカするのも、酒で憂さを晴らすのも、もっと言えば殺人などの犯罪を犯すことだって、大雑把に言ってしまえば生きるための業だ。
でももし本能が「誰よりも自分が生き長らえる」というもので、それが生物の本質であったとしたら、やがて老いて死ぬということは非常に不可解だ。
それどころか、聞くところによると我々のDNAの中には寿命を制御する部分があり、ちょうど砂時計のように一刻一刻寿命に従って老化させるようにプログラムされているというではないか!
心臓の打つ回数までもプログラムされているという話さえある。
これは明らかにおかしい。
そうすると生物というものは「誰よりも自分が生き長らえようとする一方で、ある時間がくると死んで消えてなくなる」という存在であることに気がつく。
これはなぜか?
線香の煙を嗅ぎながらボーっと考えたことは「我々は地球の上で繁殖している」という、これまた当たり前すぎる事実である。
そう、地球というのはこれまで何回も氷河期と温暖期を繰り返しているし、火山は爆発するわ台風は来るわ、中には磁極が反転したこともあったというではないか!
もっと最近の話にすれば、それこそ色々な疫病が流行ったり戦争が起きたりと、この地球上では常に色々なことが起きている。
つまり変化しているのである。
同じ環境が未来永劫続くことはないのだ。
現に太陽はだんだん燃え尽きようとしている。
いつかはブラックホールになる。
地球で生きている以上、生物はこの変化についていかなくてはならないわけだ。
生命力がある人って、要は変化に臨機応変に対応できる力を持っている人のことだと思う。
アドリブできる人ほど生命力があるというわけ。
ただどうやら長い間の進化の過程で(か、初めからそういう存在が生まれたのかはわからないが)この環境変化に対して生物が出した答えは「子孫を残して、自分は死ぬ」ということだったようだ。
わたくしは、例えば200年以上生きていれば色々な経験を積んでさぞかし賢くなるだろうから、どんな環境の変化にも対処できて生き残る率が高まるのではないかとも思うが、やはりどんどん新生して入れ替わっていく方が柔軟なシステムということになるのだろう。
ある人が50年生きて体得した知恵は、1年もあれば子供に教えられるわけだから、子供はその50年分の知恵を持った上で世の中を漂流していくことができる。
既にスタート時から知恵があるわけだから、知恵の経験値という意味では同じ50年でも(50)×50年=250の知恵を持つわけだから、単純に50+50=100年生きた長老より生き残る確立の高い賢い生物になる。
足し算より掛け算の方が強いわけだ。
現に我々はおそらくアウストラロピテクスの時代から受け継がれている知恵の上に立っており、少なくとも300万年以上の知恵を成人するまでには大半身に付けている。
子供の頃にわたくしが不思議に思っていたのは、イカとかタコとか一見グロテスクな生き物を平気で食べる(実際美味しい)が、初めに食べた人はかなり勇気が必要だったのでは?ということだが、前述のような過去の知恵が蓄積していると考えれば大いに納得だ。
まあ確かに我々の体そのものが典型的な新生・入れ替わりのシステムで動いているものだしね。
現在の最高のテクノロジーを駆使したとしても、100年メンテナンスフリーで動くエンジンを作ることは難しいが、我々はそれを常に細胞を新しくしていくことで100年生きることだってできるわけだ。
そしてその入れ替わりをするために、男と女が存在する。
女は賢くなるべく子孫を残せそうな男(金、地位、背が高い、頭がいい等)を見定める。
男は勉強して体を鍛えて働いて自分をより良く見せるために必死だ。
目には目を、変化には変化で対応する最も柔軟なシステム。
誰が考えたのか知らないけど、よく考えたよ、この生き残りのシステム!!
・・・・そんなことをモヤモヤ考えてたら、やっぱりなんだかんだ言っても自分も生物だってことをもっと再認識しないといけないなと思った。
つまり生きて死ぬってことを。
流行のアンチエイジングしたっていつかは死ぬ。
勝ち組でも負け組でもいつかは死ぬ。
始皇帝でも不老不死の薬は手に入れられなかった。
若者が自分探しの旅に出るが、答えは一つ、自分とは「生きて死ぬ」だ。
病気で死ぬかもしれないし、戦争で死ぬかもしれない。
50年後に死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれない。
日本で死ぬかもしれないし、宇宙ステーションで死ぬかもしれない。
惜しまれて死ぬかもしれないし、気に止とめられず死ぬかもしれない。
苦しみながら死ぬかもしれないし、意識もなく死ぬかもしれない。
我々Sheep Controllerの曲に「カワズ賛歌」というゴキゲンなロケンローの曲があるが、実はこの歌詞は前述のような日々わたくしがボーっと考えている死生観が色濃く投影されていると思う。
主人公の「カワズ」はもちろん自分を含めた生物を指しており、「踏まれて踏まれて」は環境変化を含めた生存競争、「あの娘」は子孫を残すこと、「乾杯」は生きていること、「凍てつく冬」は死を意味している。
歌詞に出てくる「生きてる長さが違うだけ~♪」は、わたくしが何気なく書いた歌詞の中でとりわけ気に入っているところ。
この曲は「ケロ、ケロケロ~♪」などの軽快なコーラスが入ることもあって、大半の人はゴキゲンなR&Rだと思っていると思うが、何を隠そう一番重たく深いテーマ「死」について扱った曲なんだよね。
気がつかなかった人は、今一度、歌詞を見ながら聴いてみて欲しい。
まあ歌詞の内容は説明するとつまらないのであまりしないけど、Sheep Controllerの曲の中でわたくしが歌詞を書いた「ばばあ神社」、「にんぢん横町」、「つちのこ伝説」、「ラジヲ天国」、「カワズ賛歌」、「新宿の目」、「ふとん男」などは殆んどこの死生観が貫かれていると思う。
機会があったらこれらの歌詞も味わってみて。
いろいろ書いたけど、わたくしが言いたいのは、常に死を意識するってことが逆に人生をよりイキイキした豊なものに出来るんじゃないかってこと。
学生の頃、池波正太郎の歴史小説が好きだった理由の一つも、どの作品も死を起点に描かれてて、どんな歴史上の有名な人物でも、剣豪だろうが盗人だろうが最後は死ぬっていうところが凄く共感できたからかな。
何か難題にぶち当たった時「自分は(みんなも)いずれ死ぬ。地球だってブラックホールに飲み込まれる運命。何一つ永遠なんてものはない。変化があるのみ。」と思ってみると、不思議と問題解決の糸口が見つかったりしますよ。
そんなわけで、11月のSheep Controllerのライブ予定は以下の通り!
前述の「カワズ賛歌」も演奏すると思いますよ。
11月14日(土) : 福生・チキンシャック(4バンド中、2バンド目)
11月23日(祝) : 吉祥寺・プラネットK (4バンド中、2バンド目)

いつになく重たい話題だったので、最後は楽しく?カワズ・コスプレの写真でも(笑)!!
これは我々のサイド・プロジェクト、1年に1回結成されるケロケロケンロールバンドでカエル・コスをキメるわたくしとももたろうです(笑)!!
短足がカワイイですね(爆)!!
Sheep Controllerの活動詳細は、HPご参照(http://www7b.biglobe.ne.jp/~sheepcontroller/)♪
ではでは~♪

