鋳込みって何ぞやと思われている方、結構いらっしゃると思います。今や陶芸の一つの技法とされていますが、一般的ではありません。その工程はいわゆる(イメージとして)陶芸的であるとは言えませんし、出来上がったものは(イメージとして)陶芸らしくありません。


もともと産業としての大量生産の方法であるので、大量生産とは対極にある個人の表現としては考えにくい方法でした。


 僕は、大量生産に向く、という部分よりも、自分の求める形を、より完全に近い形で焼き上げるため方法として、理にかなっているという部分に魅力を感じています。凹凸のない美しい表面を表現するには、完全に均一な厚みで成形する必要があります。鋳込みではそれが可能です(鋳込みじゃないと無理です)。また「焼成」という完全にコントロールの効かない化学変化をどうしても避けられないのであれば(その失敗の可能性をふまえると、)同じものを量産できる体制を整えておくという事はとても理にかなっています。水分の移動から粉体を焼結体へと結実させるという化学的な工程をみても非常に合理的で素晴らしい方法です。


型は、同じものしか出来ない、というマイナスの意見が多いですが、僕は、自分がベストだと思う形状のものを焼き上げるための最良のシステムであり、さらに、そのベストをいくつも生み出す事が出来るというメリットとして捉えています。


世の中に一つだけしか存在しないという価値はもっともです。量産ザクも好きですが、やっぱりシャアザクの方がいい。「3倍の、、、」には、どうしてもどうにも心が躍る。


量産は1品ものに比較し安価で質が落ちるというようなマイナスイメージがあります。これはまあ仕方のない事かもしれません。 一つしか存在しない、という事に価値をおいて、一回しか鋳込まない。かなり長い工程を経て作った型を一回のみの使用というのはコストから考えるとなかなか厳しい(いつかやってみたいけど)。


ただ、浮世絵には浮世絵の良さがあり、優れたプロダクトデザインはそれはそれでアートだと思うものもあります。工芸品よりも工業製品の方が美しいと思うケースはあります。量産=価値が低く、一品もの=価値が高い、そういう図式が世の中の全てに当てはまるとは僕は思わない。


量産をベースにした工程であっても、充分表現手段として成立すると考えます。もともと分業であった陶磁器制作を、全て個人で行う事によって、表現として成立させてきた偉大な先人達もいます。(今はあらゆる表現の世界において、発注する事が当たり前になっているかもしれませんが、僕も偉大な先人同様、自分自身の手に拘りたい。)その工程を全て自分でやったから、それが表現として成り立つという意味ではありません。鋳込みには鋳込みならではの表現ができる。自分で諸問題をクリアする事で新たな発見があり、新たな技法につながり、僕にしか出来ない表現へと結びつける事も可能になる。


さて、またまた前置きが長くなりました(今までのは前置きです!まだ長くなってしまいそうなのでこの辺で)が、鋳込み教室の生徒さんが、教室での制作工程をブログとして記事にしてくれています!


http://ameblo.jp/tonkun/


これをお読み頂ければ鋳込みによる制作の流れを理解して頂けると思います。


でも秘技や奥義は伏せてもらいますのであしからず(笑)。