翌日

その日はどうしても外せない講義があり、俺は早くから行けず。

遅くなってしまったので行こうか、迷っていたら、連絡がきた。
夕日が落ちるのと時を同じくして、眠るようにいったらしい。
もう会えなかった。
会えないことを知った。

彼女は予期していたのだろうか。

しかし、次の発作で亡くなると思っていた周囲は、驚きとともに、その安らかな顔に少しだけ安心した。

どちらにせよ。

年端もいかぬその子には、時間が絶望的になくて。
わずか数十年でその時間に終わりが来てしまった。


俺が後悔したのは、お母さんとの最期の時間を奪うことに…結果的になってしまったこと。

最期の瞬間すらも運悪く立ち会えなかったらしかった。

それでも、お母さんは「ありがとう」って。

泣きながら、こころからの言葉をくれた。


結局のところ、ワーカーとしては失格だったように思えてならない。

けれど、彼女にしてあげられたことが彼女にとってもし、少しでも幸せだったなら。

こんなにうれしいことはないって、そう思える。


彼女からの最後の手紙をもらった。

さすがに、ここにそれはのせないけれど、拙いなりに懸命に書いたラブレターだった。

だから、渡せるはずもない返事を当時の俺は書いた。



天国はどうだ。
居心地いいか?
お前の言うように、幸せが三大欲求なら。
俺はまたしばらく 幸せになれそうもない。

最期になにをおもった?
苦しくはなかったか?
かなしくはなかったか?
孤独じゃなかったか?
いつも笑っていたから、言う言葉も見つからないよ。
最期になにをいってあげられただろう。
なにをしてあげられただろうって。
そればかり考えてしまう。
なんて…おこがましいかな。

でも…それでも、さ。
天国なんてもんがあるなら。
そこで…誰より幸せになってくれ。
純粋にそれだけを願うよ。
君を想って、綺麗になれた気がした。

純粋な想いに触れて。
綺麗に、なれた気がした。
だから、ありがとう。

さようなら。


当時、ブログにもこれをのせた。

よく考えたら、本も読んでいなかったあの子に読める漢字じゃないよなって。

あとから気づいた。


この出会いは、俺が…沈んでいた俺が。

すごくいい出会いだったと、素直に言えるものだった。

お母さんには申し訳なかった。だけど。

彼女の言葉がいまだ胸に残って、離れない。

でもそれは、とてもいいことだった。

それから一年ちょいたったけれど、どんな時でも、彼女の言葉が少なからず助けてくれたように思う。


正直、とても愛していたとは言えない。

言えないけれど。

好き以上の何かを今抱いているのは事実だ。

どうか、安らかに、眠ってほしい。

この日はお昼を過ぎたころに病院についた。

無理をするな、と言われたから。

実際、昨日は家を六時だかに出ていた。とんだお笑い草だ。

顔を見ると微笑んだ。

お互いに。

お母さんもいて、俺は会釈だけした。

彼女は起き上がって、俺に催促をした。


俺がながくて綺麗な髪が好きだと知っていたから、彼女は母親にねだっていた。
だから、俺は丁寧にあらってあげた。
ドライシャンプーとトリートメントで。
そのあと綺麗に梳いて。


喜んでくれた彼女と、他愛もない話をした。
お母さんが切ってくれたメロンを一緒に食べて。

部屋には、トリートメントとメロンとシクラメンの香りでいっぱいだった。

彼女はシクラメンが大好きなんだとか。

花言葉は「家族の絆」


お母さんが帰った後。

夕方、少し寝たいと言われて。

起きるまではいると約束をした。
眠るまで、手を握って頭をなでてあげた。
呼吸が落ち着いて、寝たのがわかると。
あまりに悲しくて…静かに泣いた。
起こさないように。
でも…彼女の分まで泣きたかった。

彼女は誰に言われるでもなく、最期が近いことを知っている。

間違いなく。

だって、泣いていないだけでなく。

母親の顔を一度だって見なかった。

不自然なまでに避けていた。

そんな姿を見て、母親は同じように彼女を避けたとわかった。


二人はもうすべてを分かり合っていた。

絶望的なまでに。

だからそう、彼女が起きた後言われることも、なんとなくわかっていた。

わかっていた…つもりになっていた。


彼女が起きたのは六時ごろ、ご飯がきたころだった。

俺は自分の分の弁当を食べ、病院食はまずいという話をした。

もちろん、おかずをあげた。

他に何かしてほしいことはないか聞いて、彼女はなにもないと言った。

それで思わず、「幸せか?」なんて聞いてしまった。

彼女はこともなげに、「もちろん」と答えた。



本当に幸せか?
うん、すっごく幸せ
…こんなに絶望的でも?
あたりまえじゃん
なんでだよ
あなたがいるから
……
大好きだよ 愛してる
・・・・・・・
親に抱く感情以外にこんなに好きって思うとは思わなかったよ
・・・・・・なん、で?
理由なんかないよ。愛語らうのに言葉はいらないってやつ?
笑って言わないでよ…俺はそんな綺麗に好きって感情をもてない…


そりゃそうだ。

なんとなく予感があっても、そんな言葉は素直に受けられない。
1オクターブも違う時間を生きてる子に、そんなふうに想われて。
こんな穢れきった。

荒んだオトナが返せる言葉はなかった。

彼女は残酷に続けた。



うそでもいいよ
…え?
彼女さんいたんでしょ?
うん…
そのひとにしたみたいに演技して?
・・・・・・
できない?


ひどくわがままだった。
そんなふうに本心では思っていなかったけれど。
でも。苦しかった。

好意はあったさ。

もう数年一緒にいたら、間違いなく好きになっていた。

ちょっとずれているけど、それだって普通に生活していれば問題なくなるだろうし。

肉付きの薄いからだも、穢れのない整った、正直かなりかわいい顔も好みだった。


違う、そうじゃない。

答えられるわけがなかった。

もういつ亡くなるかわからない子にこんなふうに想われて、どうしたらいいかわからなかった。

けれど、俺はすべての言葉と疑問を飲み込んで、「ありがとう」と言って、額に口づけをした。

それが精一杯だった。


「えへへ、ありがとう」


そういって、目じりに少しだけ涙をためた目で見つめられて、切なくなった。

そして、その日は帰るまで、手を握ったままだった。

ただし、次に来る約束を彼女は不思議と口にしなかった。

朝から入った彼女の部屋はとてもすんでいて、朝ごはんのにおいが少しだけした。

そこで初めて生活感を感じた。

彼女がこの病室の住人なんだって、初めて知った。

「あぇ? おはようございます?」

彼女は驚いてた。

まだ面会時間には早い。

常識では考えられない訪問だし、ましてきちんとした制約はなかったけど、職務規定違反甚だしかった。

「おはよ」

それでも、呼吸器がとれて、すこし血の気の戻った綺麗な顔をみて、ほっとしてしまった。


この日、考えられないくらい長く話した。

不便な田舎の環境だから、電車は最終が九時。

それに間に合うようにバスに乗るんだから、と逆算しなきゃいけないくらい。

お母さんはこなかった。

心配で今朝帰られたらしい。

だから、看護婦が数度来ただけで、ほとんど邪魔はなかった。

多くを、本当にいろんなことを話した。

俺の成育歴を始め、初恋から今に至るまでの惚れた腫れた。ドロドロの恋愛。

思春期のことやそれ以前の悪さ。

父からの仕打ち。

妹との仲の良さ。

彼女自身のことは、そんなになかったから・・・俺が話し続け、彼女はのめり込むように話の先を促した。

途中で、傾聴される立場、反対じゃないか?とか思ったけど、話さずにはいられなかった。

多くを体験できないこの子にとって。

俺の話す広い、リアルな世界はきっとすごくうれしかったんだと思う。

帰り際に「いっぱいお話ししてくれてありがとう。宝物にするね」

そう言って、手を握りしめてきた。

間違ってなかったかなって、今度ばかりは後悔しなかった。


明日またくるねって約束をした。

ドライシャンプーとトリートメントを親に持ってきてって言ってた。

俺にしてほしいらしい。

ホントは髪もきってほしいなんて言ってたか。

さすがに病院に迷惑かかるから、と断ったけど、してあげればよかった。


幸せについて話をした。

俺は、お互いの幸せを好きな人と維持することの難しさを話して、どうしたらいいかを一緒に考えた。

彼女は今までに見せたことがないくらい真剣な顔をしてうんうん唸ってた。

しばらくして、彼女は口を開いた。


幸せってなんなんだろうね

人間の三大欲求、かな

食欲は…きっとおいしいものを食べたいときに食べること? でも、一人じゃおいしくないから、家族とか好きな人と一緒に食べることのほうが大事かな
おなかすいてなくても、おいしく感じるもの 誰かと一緒に食べるのって。

睡眠欲は…きっと第一に眠くなるくらい一生懸命生きることだよねっ それでふかふかのおふとんから少しお日様のにおいがして ぐっすり眠るの。あ いい夢見ることも重要だよっ 絶対。

性欲は…よく、わかんないけどさ
思うのはりっしんべん?だっけ? あれとっちゃって「生欲」なんだよ。生きることへの欲とか執着みたいな? もしくは、精一杯いきること だよね。


俺はこの時、すごく面喰ってた。

たった一日話しただけで俺のすべてを、フォローしにかかってきた、と。

本人にもしかしたらそんな気はなかったのかもしれないけれど、でも。

拒食でもどしまくったことも、不眠症になって、酒と涙で服をびしょびしょに濡らして明かした毎夜のことも、生きることに執着がなくなって死のうとしたことも一度や二度じゃないことも。

全部話してたから。

すごく心に響いた。


なぁ…
きっと俺はどれも勝てないよ
だってそんな綺麗に笑えねーもん
なんで笑ってられたんだよ
どうして…誰より幸せそうなんだよ


そんなこと言わないの
まだ心が荒んでるんだよ
私は…真っ白だもんねっ
ほら でないと天国いけないじゃないっ
憎しみも悲しみも いらないよ
おかーさんもおとーさんも それにあなたも
私を想ってくれた それでとりあえずは十分だもの
幸せだよ
他のひとのは…言っちゃ悪いけど
同情とか不憫とか そんなふうに見えちゃうな
あ…そんなふうに考えちゃうのは黒っ?
せっかく心配してくれてるんだから
不快に思っちゃダメだよね…あはは


・・・少しくらいなら許されるだろ
そんな全部真っ白じゃきもいよ


ひどっ
きもいとかっ
女の子に言うこと?


あはは
冗談。
綺麗だよお前は。

ところどころ、言葉には気を付けた。

かわいいではなく、綺麗と言ってほしいだろう彼女。

手入れの行き届いていない髪を嘆いてはいたけれど。

それでも、一度あんな形で救われてしまったら、俺はもう、どうしたらいいか、わからなくなってた。


このとき、彼女が時間をかけて紡いだ言葉は、今でも確かに俺を救っているんだ。

生きろって。

幸せになってって。