初めて会ったその日から一日だけおいて、俺は病室に向かった。

ついてみると、病室周辺は慌ただしく、扉の隙間からは呼吸器をつけて息苦しそうな彼女が見えた。

お母さんにきたことだけ伝えると、俺は待合室にさがった。

お母さんは…泣いていた。

沈痛な面持ちで。

声を殺して。

待合室にきてしまってから、付き添うべきだったと後悔した。

親族はほかに誰もいなかったのだから。


もし…このときが最期のときだったのなら。

それはもしかしたら、俺にとっては幸せで。

彼女とお母さんにとっては不幸だった。とれで済んだのかもしれない。

けれど、彼女は今際の際で頑張って、今一度だけ、現世に戻ってきた。

バイタルが安定して、まだ目覚めない彼女のそばに、母はいた。

粗末なパイプ椅子に座って、手元で手がしろくなるほどハンカチを握りしめていた。

「あ」

俺にきづいたお母さんは立ち上がろうとして、俺に静止された。

「そのままでいいですよ」

近づいて、バイタルサインを確認した。

少しだけ心拍が高かった。

強心剤で無理やり覚醒させたようで痛々しく、なんか悲しかった。

「また、私はなにもできなかったのね」

しばらくの無言のあと、お母さんがそういったのが印象的だった。


「この子はこんなに頑張って、生きようとしてくれてて、お医者様はこの子のために尽力してくださってるのに…どうしてこの子がこんな目にあわなくちゃいけないのよっ」

「私は、苦しませるためにこの子を産んだの?小さいころからね、この子自由に遊ぶこともできなかったのよ。それなのに、最後までこんな…」

「私はなにもできないのっ」


決して、ヒステリックではなく。

ただ慟哭するように。

泣いても泣ききれない気持ちがあふれ出した感情そのままに、そんなことばかりしばらく言っていた。

俺は、これにこれまた教科書どおりに傾聴した。

たまに反復と、理解を促して。

それが正しいと知りながら。

でも一番無力であることに歯噛みし、空しく、涙がこぼれた。

ほぼ赤の他人の俺が涙を流す資格なんか、ないのに。


「手、にぎってあげてください」

これは教科書にはない。

でも無力だと嘆くお母さんにできる、俺の精一杯だった。

「母親の温かさと、存在感は、無条件に子供の安心なんです。こうやって手を握って、泣いてあげることは、お母さんにしかできないんです」

そんなことを言って、お母さんの肩にふれた。

それはあなたもひとりじゃないって少しだけの気持ちと、心音に合わせて、トントンと優しく、落ち着きを促した。


しばらくして起きた彼女は、少しだけぼーっとしていて。

呼吸器も俺が帰るまではつけたままだった。

全然話せなかったけど、臨死体験を経て、お母さんとはうまく付き合えそうだった。

この日、少しだけ彼女が紡いだ言葉は、とても優しくて、とても綺麗に感じられた。


心配かけてごめんね

お水ほしいな

ううん、大丈夫

お母さんありがとう


そして、帰る時間になって。

「また、きてくれますか?」

と聞かれて。

俺は「また明日」と返した。


彼女は、月並みなセリフだけど、美人になりそうな顔立ちだった。

このときであっても、とってもかわいくて。

まともに生活をおくれなかったせいで、ちょっとだけ成長の遅れた身体だったけれど、それでよかった。

もう少し大きければ、俺自身本気で好きになっていそうだったから。

それは…タブーだって。このときやっと自覚した。


ここまでお母さんとは、たくさん話せて、充分ケアできたと思う。

本人と話せた時間はあまりなかったけれど、大学の授業はうまくやりくりしていたから、時間だけはバカみたいにあった。

だから、少しくらい無理しても、彼女のところに通うことを心に決めた。

医者がお母さんに言ったことを盗み聞きしてしまったから。

「もう次の発作には耐えられないでしょう」

もっと優しく、いい言い方だったようにも思えるけど、俺にとっても母親にとっても、楔のように重く突き刺さった。

これから、やっとケアに入れると思っていたのに。

けれどその夜、レポートを書く段になって気づいた。

彼女は「死の受容の五段階」をすでに終えていた。

つまり、ワーカーとしての俺は、もう本当は不要だった。

それでも、もう一度行かなくてはいけなかったのは、彼女と約束してしまっていたから。

次の日、俺は朝から病院に向かった。

「あー伊藤くん、きみ、病院実習の希望出してたよね?」
ある日教授にいきなりそう言われて、びっくりしたのを覚えてる。
以前、確かに希望はしたけれど。

正式な希望ではなく、してみたいって程度にぼやいただけだったから。
だけど、いざ行くとなるとその現実感は非常に重かった。
「ホントは四回生に行かせるつもりだったんだけど、クライアントが子供でね。大人に対して不信感あるみたいで」
や、他に誰かいるでしょって心の中で悪態をついたのを表情には出さなかった。

俺は幼いころから大人びた容姿をしていて…要するにふけてみえた。
でもなぜか子供受けはよく、ましてこの大学は高校上がりの入学生が少なく、普通進学組は不真面目なだけに、俺みたいに普通に大学生の歳でそこそこまともに真面目な生徒は目立った。
教授からのうけがよかった。
「心臓病の女の子なんだけど」
そう言われて、『半分の月がのぼる空』を思いだし、少しだけうかれて、そのボランティアを速攻でうけた。


でも、よく考えたらそううまくいくわけはないんだよね。

なんのボランティアって、ターミナルケアだもの。

終末期医療。もしくは介護。もしくは相談業務。

死ぬことがわかってる出会い。

でもだからこそ、そこから奇跡的に回復したら、そんなにドラマちっくで素敵な恋はないって。

大失恋して、悲しみにくれてた俺は浅はかにそう思った。

奇跡って安売りしてないんだよ。

そんな簡単に、おちてないんだよ。


とある大きめの病院。

その市内で一番って聞いた。

だから、「緩和病棟」なんて小難しいものまであって。

そこはしろだった。

死と戦う城。

力尽きた、でも懸命に生きた純白。

涙も悲しみも、すべてさらけ出してなにもなくなった白。

そんなふうに感じた。

それほどまでに荘厳で、悲しいにおいがした。


扉に書いてあった女の子らしい名前はちょっとだけ不自然に感じた。

だって、ここは死の現場なのに。

――トントン

無機質な音を響かせて、俺はドアをノックした。

「どうぞ」

返事があったのを確認して、静かにドアを開けた。

開けた途端、その子の無垢な瞳とばっちり目があった。

「誰」

疑問符もなく、すごく、敵意むき出しで。

死の受容五段階で言われる二段階目「怒り」なのかなーなんて。教科書通りを反芻した。臨床現場では意味もないのに。

「ボランティアの大学生のかたよ」

すごく、悲しさにまみれた、暗い印象しか持ちえない彼女のお母さんはそういって俺のことを説明してくれた。

「伊藤です」

いつも話すのがそこそこうまくて好きな俺でも、二の足を踏んでしまった。

目の前に横たわってる小さな女の子が死の恐怖とたたかっているなんて、信じられなかった。

彼女は、本当にまだ小さかった。

見回すと、私物らしい私物はぬいぐるみと何冊かの本だけだった。

漫画もなく、音楽プレイヤーの類もない。

ゲームなどもなかった。

趣味や生活感は感じられない。

あまり丁寧に手入れできていないだろう髪は、少しだけぼさぼさで、でも病院には似つかわしくない女の子のにおいがした。

飾り気のない部屋にちょこんと座るシナモンのぬいぐるみは少しだけ寂しそうだった。

無言で近づいたのは今は反省している。

視界の隅で震えた彼女を確かに見たから。

「僕とお話ししない?」

シナモンを持って、少しだけシナモンの声色を真似て。

「ぶっ 全然似てないよー」

自分でもひくほど下手で、悲しかったけど、彼女が笑ってくれた。

それだけでうれしかった。

「あはは 俺声低いからなー でもシナモン好きなんだよ?」

それは本当で。

以前付き合ってた彼女とは何度も「サンリオピューロランド」に行ってた。

「変なの おっきいのに」

「えっ かわいいじゃん シナモン」

言いながら、「くちゃーい」って柔軟剤のCMに出てたシナモンの真似をしたら、今度はちょっとだけ声を上げて笑ってくれた。


必死だった。

こんな子の話し相手になれるならって。

少しでも、気を紛らしてあげられるならって。

ターミナルケアの形としてはあまりよくないのに。

でも、こっちと話したいって思わせないことには前に進めないことを知っていたから、頑張った。


それから、話をした。

趣味のこと。

彼女が行けなかった学校のこと。

発作がひどくて、小学校もまともに通えなかったらしく、俺の話を珍しそうに聞いてた。

とはいえ、俺も小学生の時は悪いことばかりしてたから、楽しそうないい思い出ばかりみつくろうのには苦労して。

そうこうしているうちに時間がきて、教授が迎えに来た。

「またきてくれる?」

帰り際にそう聞かれて、俺は困った。

通えない距離じゃなかったけど、こんな子に今の俺がなにをしてあげられるかわからなかったから。

でも、残された時間を聞いていたので、「近いうちに必ず」と言った。

それはよくも悪くも、覚悟のない軽薄なウソだったけれど、すごくうれしそうに笑って、「ばいばい」と別れをいってくれた。

教授に「どうだった?」と聞かれて、報告だけ口頭で伝えた。

あとで簡単なレポートを書くことになっていたから。


後悔してた。

安請け合いしたこと。

奇跡なんて、言葉を思い浮かべたこと。

あんな子と好きあえたらなんて、バカみたいな…本当にバカなことを思ってた自分を許せなかった。

彼女は本当なら中学二年生で、普通に友達作って、学校通えてたはずなのに。

病気のせいで、死に直面して。

かわいそうすぎた。

そんな同情の気持ち、もったらいけないのに。


本当にまわりの大人には手がつけられないらしく、教授の顔を見ただけで、彼女はかたくなっていた。

母親は…たぶん諦めていて。

話すことよりも、身の回りの世話だけしようって決意を構えた風だった。

それじゃいけないってわかってたから、俺は頭の中を整理して、また行くことを自分の中で密かに誓っていた。