「総合学習」が生まれた背景には、公害・環境問題をどう理解・克服していくかという問題意識があったことについて(3カ月前の記事で)述べた。教科横断的に(個別諸科学・学問の枠を越えて)考察・解明していくことが大切だ、という(「総合学習の」)問題提起は前回述べたように、経済学者宇沢弘文の問題意識とも共通する。従来の経済学は、主として「市場の内部」メカニズムを数理的に解明し制御することを中心とする「学問」(いわば部分合理性の追求)だったわけだ。が、公害問題と向き合う中で宇沢弘文は経済学の探究をそれまでの範囲から大きく拡大していく必要性を痛感し、社会的共通資本という概念を強く提唱することになる。

『自動車の社会的費用』(47版を重ねている)の中で、彼は「事故によって毎日のように多くの命が奪われる現実を引き起こさない社会環境」(道路の十分な広さだけでなく歩道や自転車道路の広さを十分にとり、しっかりと街路樹を植え、道路の中央には安全地帯を設けるなど)を整備するための費用(さしあたって東京都内)を算出し、そこから「自動車一台あたりの社会的費用(当時の貨幣価値で1200万円)」を導く。(※註)そして、この発想の延長上であらゆる公害・環境問題についても人命その他への被害をあらかじめ防ぐような環境整備が生産・消費の両場面で(経済学・社会的費用の対象として)課題となる。この発想をもとに、それまで「市場外」とされていた自然・社会環境にも経済学の射程を広げるのだ。
当然、問題を生み出さないような「自然・社会環境整備」に必要な条件を導くためにも自然科学・社会科学の様々な分野の垣根を超えた考察が必要となる。
(※註)なお、上岡直美は『自動車の社会的費用・再考』の中で「自動車の走行距離を減らすことで社会的費用を減らし、代わりに公共交通を充実させながら地域を形成していくこと」を主張している。宇沢弘文が主張するところも(実際に1200万円負担すべきということでなく)そのような方向で理解すべきだろう。
ここで、『資本主義と闘った男』(佐々木実著)に記載されている宇沢弘文の文章(および佐々木のコメント)をやや長いが紹介しておきたい。
〔宇沢の言葉〕
高度経済成長の限界を眺めてみるとき、まず注目されるのは「環境」に関する制約条件が無視されてきたということである。個々の経済主体によって私有することを制度的に認められないか、あるいは現実問題、私有することが不可能に近いような資源を一般に「環境」(「自然的環境と社会環境の両方を含んだ意味」)と呼ぶことにしよう。大気、水、土壌などの自然的環境と交通、保健、教育などのサービスを生み出す社会的環境とであるが、経済学上の用語を用いれば社会共通資本である。
環境は一般に各経済主体によって自由に使用され、私的な経済計算に入ってこない「自由財」として、各経済主体がなんら対価を支払ずに使用するものである。・・・
水俣病を契機として、大きな社会的問題となってきた産業公害の現象は、自然的環境という社会的共通資本の破壊・汚染によって発生してきたものである。また、自動車公害等に代表される都市環境の悪化は、都市という社会的共通資本の使用に関するミスマネージメントとその蓄積の不足によって起きたものと考えられる。これまでの高度経済成長政策は、このような社会的な観点からする環境の希少性を充分に考慮に入れず、単に私的な資源の希少性を市場価格によって反映させようとしてきたのである。 (以上、宇沢の文章)
〔佐々木のコメント〕
宇沢の狙いは「シャドウプライス(陰の価格)」で社会的共通資本の価値を明らかにすることである。なぜなら、通常、社会的共通資本は市場で取引されず、財やサービスであっても価格が無いからだ。・・・
『自動車の社会的費用』においては社会的費用をシャドウプ・ライスを駆使して市場価額に換算することによって、車の利用者が負担すべき費用を試算して見せた。
社会的費用を内部化する意義について、宇沢が同書の結びで語っている。この基準を適用する時、どのような地域に住む人々も、どのような所得階層に属する人々も、社会的な合意を得て決定された市民の基本的権利を侵害されることはない。また、他人の基本的権利を侵害するような行動は社会的に許されないという原則が貫かれる。そして、すべての経済活動に対して、その社会的費用は内部化され、福祉、経済社会への転換が可能となり、私たち人間にとって住みやすい安定的な社会を実現することができる。
『自動車の社会的費用』で宇沢弘文が試みたのは、経済成長を追い求める政策からの転換を促すことだった。「福祉経済社会」を設計するための政策や制度づくりに、指針を与えることである。
