たぶん写真の頃。2歳か3歳ぐらいだったと思う。
トタン屋根の小さな2階屋で、祖父母に「お母さんは?」と尋ねた記憶がある。
祖父母どちらかだったか、壁に掛けられていた安っぽい額に入れられた聖母マリアの絵を指し、「あれがお母さん」と言われ聖母マリアの絵をしげしげと眺めていた。
それが一番古い記憶。
それから四半世紀経って、母親は僕が1歳の時に家を出ていったと知らされた。更に十数年後、それまで交通事故で他界したと聞かされていた父は、妻に家を出ていかれたことを悲観して自殺していたと聞かされる。
その話を聞いた当初は困惑しかなかったけれど、考えれば片田舎の閉鎖的な村社会で、妻に逃げられた長兄は世間の目に耐えられなかったのか、出て行かれた喪失感だったのか、その両方だったのかも知れない。人生を悲観しての決断だったのだろう。
その後、祖父母に育てられるも、2年後祖父が他界。身体を悪くした祖母は3歳児を持て余して育てられないと、子供のいない在日韓国人夫婦にゆだねた。
その韓国人夫婦に実の子供として育てられたが、高校の時、親に黙って自動二輪の免許を取得するため住民票を取りに行った役所で戸籍が無いと言われ、薄っすらと覚えのある幼児期の記憶から『あぁ、やっぱり』と、自身のルーツと、日本国内で在留外国人が日本人の養子を取る場合、その子供が成人になり、本人が承諾しない限り国籍までは変えられないことから、韓国人両親と同じ苗字で戸籍がないことを理解した。
それから6年後に育ての母親が急逝し、やがて老いた父親が、死ぬなら故郷でと言って韓国に帰った。
その際、「実の母親に会いたいか?」と聞かれたが、産みの親より育ての親、そんな“言葉”が育ててくれた両親に対し、せめてもの孝行だと「会いたいとは思ってない」と、きっぱり答えると、父は「むこうにも生活がある。会いたいと思わない方がいい」そう言って韓国に帰った。
それでも、顔ぐらいは知りたい。本心ではずっとそう思っていたが、父親の前で口にすることはなかった。
僕の中で実の母親は安っぽい額縁に入った聖母マリアのまま。
先日、仕事中にゆうパックが届いた。
実の母親が去年亡くなっていて、戸籍上に僕の名前があるのを後見人が知り、実の母の遺産相続があると連絡してきた。
いきなりの知らせに驚く。
再婚された後、子供は出来なかったそうで、身内は母親のご高齢になる姉、叔母にあたる人だけという事も分かった。
後見人から叔母にあたる人の電話番号を聞き、電話をしてみると、開口一番「あなたの事は知っていたけど、、、置き去りにしてごめんなさい」と、謝られたがピンとこない。
1才で母親を失ったまま、そろそろ終活を考えた方がいいかなという年齢になっている身としては、1歳の子供を置き去りにせざるを得ない理由がなんだったのかが気になるだけで、今は昔の話として問うつもりもない。
話を聞いて驚いたのは、実の母は再婚後、同じ都内の電車で1時間圏内で暮らしていたこと。相続の対象になる子供が他に居なかったこと。
そして、夫婦2人暮らしで5年前にご主人を看取ってからひとりで生きていたこと。
なんで探してあげようと思わなかったのか。
なんで高齢になっているであろう母親が孤独じゃないかと思ってあげられなかったのか。
色んなことが頭の中を駆け巡る。
遺産相続の受取りを辞退して、叔母の今後に活用してもらうよう伝えた。
1番古い幼児期の記憶、
おかあさんはどこ?
今は都内の合同墓地に眠っていて、そのお寺を近く尋ねるつもり。