私には、初めて立ち上がった時の記憶がある。

初夏の風が心地よい、
新緑に囲まれた、
湖の畔に一つだけ置かれた、
古びたベンチ。

今の私より若い父と母の間に挟まれたように座る私は、
何の気なしに父の逞しい肩につかまり、
湖をもっとよく見ようと、
立ち上がったのだった。

「お、立ったよ」
「ちょっと!こんなところで立ったら、危ないよ」

穏やかに興奮する父と、
安全を気遣う母。
すると父はこう言った。

「おい、そこからジャンプしてみろ」

幼いながら跳ぶかどうか戸惑う私と、
バカなこと言わないでよとか、冗談だよなど、ワアワアなった後、
二人は笑いあって、つられて私も笑った。
そんな記憶・・・

人間は、脳の中で古くなった記録を何度も繰り返し呼び出し、
情報を再構築して、新たに自分の過去として認識するため、
自分に優しいものに作り替えて仕舞うものらしいが、
「初めて立ち上がった時の記憶」は、今も息ずいている。

大人になると、記憶の出し入れは面倒臭くなるが、
新たな情報を拒絶し、記憶の整理を止めた時、思考が腐敗するに違いない。

ガチャガチャ引き出しを開け閉めして、
小さい脳みそを散らかすのも悪くない。

そんな夜長です。