尼崎の歴史巡り4です

辰巳八幡神社から次は、細川高国のゆかり地へと向かいます

国道43号線から少し離れた場所に

大物崩れの石碑がある場所へ移動しました。

ナビの言うとおりに行くと、公園の敷地内にひっそりと立っていました。交番のすぐ隣にありました

こちらが大物崩れの石碑です
誰かが、お酒が入った小さな酒瓶をお供えしていました。
大物崩れの案内板です。案内板には、こう書かれてあります
応仁の乱をきっかけに、戦国時代となった頃、室町幕府の実権を握った細川氏も、内部で対立していきます
細川政元の養子、高国と甥の晴元がそれぞれ対立すると、尼崎の地でたびたび戦火を交えています。享禄4年(1531)両者が決戦するに至ったとき、高国勢は、総崩れとなり、高国が居城とした尼崎城(大物城か)へ逃げ込む程の大敗となりました。晴元勢の追撃は激しく高国は、広徳寺で自刃しました。この戦いを世人は、:大物崩れの戦い;とよんで、語り伝えられてきました。
こうして撮っている間も公園の隣にある交番の前で立っている警察官が不思議そうな顔でこっちを見ていました笑
大物崩れの石碑がある公園の敷地内です。
かつてこの場所で数千〜数万の細川軍の兵士達が死闘を繰り広げたのかもしれません。
細川高国最期の地となった廣徳寺です。
享禄4年6月8日(1531年)に、大物崩れの戦いで敗れた細川高国が三好一秀に捕らえられ広徳寺で切腹させられた場所です。
住職さんに、連絡を取り話を聞かせてもらいました。
細川高国はこの廣徳寺の門前で捕縛されて、切腹させられたと伝わっているそうです。
墓はあるかと尋ねましたが、住職さんによると
住職さん「高国は確かにこの廣徳寺で切腹しましたが、墓は境内にはありません。
ここら一帯は、織田信長の焼き討ちや空襲の被害にもさらされてしまい、あったとしても焼失した可能性があります。
あなた様のように高国の墓を探している多くの歴史研究家の方々なども尋ねて参りましたが、いずれも同じようにお答えさせていただいております」
またこの廣徳寺は、天下人豊臣秀吉のゆかりの寺とも呼ばれています。
廣徳寺の境内と案内板です
こちらが廣徳寺の本堂前です。
今日は閉まっていました
廣徳寺の寺務所です。
ここで住職さんから廣徳寺の歴史聞きました
廣徳寺の裏門付近にある
太閤記伝秀吉由緒寺
住職さんには、高国から秀吉の事について尋ねると
住職「秀吉は、中国大返しの際に尼崎にお越しになられ、当寺に立ち寄り休憩した話と伏兵を避けて来られたという話が当寺に伝わっております」
秀吉の画像があると書いてあったので、住職さんに尋ねると、
住職「あちらの門の所にパンフレットが置いてあります。そちらに載っている秀吉の画像が当寺に伝わっております、秀吉の画像でございます」
という事で、こちらが廣徳寺に伝わる秀吉の画像です
なんか豊臣秀吉の肖像画って、下記の肖像画と甲冑姿の肖像画が有名なような気が…

これは、あまり見ない肖像画ですよね
本日はご覧いただき誠にありがとうございました!