残暑です。
皆さん、エアコンの冷やし過ぎ、してはいませんか?
夏は暑いから夏なのですといったように、四季を感じる楽しさが、そこにはあるでしょう。
サマータイムで、世の中、軽く駆け抜けましょう。
まぁ、クールビズは、それなりにビジネスシーンで浸透したようですけどもね。
【安倍は帰れコール再燃か?】
政治は与野党という括りで二等分にしますから、国民の間でも、大きく二種類の考え方が出来るというのが、ストーリー性のある政治でありましょう。
そうした中で、今回「安倍晋三元首相の国葬」を巡って激しく意見が分かれているようです。
国葬は実行するべき行事であるとした推進派の人々と、そうではなく国葬は政府の押し付けだから中止だとした反対派の人々が、真っ向勝負で挑み合い、それはまるで昭和期の保革戦線を再演しているかのようであります。
元気な70代、80代の人達、多いようです。
【国葬の意義と意味は?】
国葬は日本人を「総員、喪に服せ」としたものである事から、その意義は、全体主義を感じさせるものとなりますでしょう。
これは、「夏祭りや盆踊りを皆でやりましょう」、という同好会の軽微な要素が微塵もないものですから、見方によれば国家的強制力だけが目につき、その事に対して拒絶反応をする方々が居ても必然ですし、そしてまたその方々は、真の利己的自由主義者と言えましょう。
一方で、国葬の意味ですが、内閣総理大臣経験者を暗殺したという行為を断じて許さない価値観から発するものとして挙げられましょう。
言わば、殺人行為を肯定しない市民社会を継続させる為に、必要な措置であるのが、この国葬と言えます。
但し、安倍晋三元総理の人格や政治的結果については、この国葬では、重ね合わさないのが暗黙の社交性となるので、国葬は粛々と執り行われるものであると言えましょう。
【安倍晋三さんへの評価は?】
率直に申してみれば、誰しも聖人君子ではないのが人類であり、それを人間性というのなら、安倍晋三元総理が完璧でないとしても、その責めをする用意は、どこにもない事でしょう。
そして、確かに安倍晋三元総理は、近親者や側近者でなければ、その人物像のイメージだけが先行評価として覆われがちですが、やはりその印象は実物と異なっていて、「クソ野郎」枠に入ってたり、「ダメ人間」枠にいたり、「ポンコツ」と称されるのは致し方ありませんというのが、政治家の宿命と言えましょう。
【罪人にも仏の道がある?】
仏教伝来のある我が国日本国で、死刑囚にも供養がなされる、そんな仏の道が活きている我が国日本でありますでしょう。
ですから、安倍晋三元総理の供養はどうなの?となりましょう。
少なくとも安倍晋三元総理は、私刑には遭ったとしても、日本国憲法下での判決後の死刑囚ではないのであります。
その点を踏み間違えずにいれば、安倍晋三元総理は「嫌疑不十分で罪人ではない」との判断が、国民総意とならなければならないし、なければこの国は法治国家を捨て去ると言えましょう。
≪ まとめです。≫
国葬の実施は、日本人の寛大さと寛容さを国内外へ指し示す絶好の機会と捉えると良いでしょう。
何故なら、日本人は、政敵であろうとなかろうと、「暗殺を憎んでいるが死んでいいとは全く思っていなかった」とする、そうした心穏やかな心境を手に入れた、優れた平和主義に元ずく民族であることを宣言できましょう。
それこそ、不戦の誓い、に通じる崇高な志の表れと言えましょう。
政治家はその政策ひとつで、国民の暮らしと生命を奪う事が簡単に出来ますから、より一層の熟慮と思慮、そして叡智が要りますのは、言うまでもありません。
その事を軽んじたり、認識できないようでは、このような暗殺は人類史では絶てないだろうし、必ず必然性を帯びていると言わざるを得ないです。
ですから、「政治で気楽に遊ぶな」、「ノリで選挙に立候補して遊び半分で当選するな」、「嘘や詭弁で私利私欲を満たすな」、と言えましょう。
この事を深く理解し、厳しく感じなければ、政治家になるのは止めた方がいいでしょう。
命懸けの職業、警官、救助消防隊、自衛官軍人、伝染病医療現場、その他、いろいろありましょうが、精一杯に生きている努力している、手抜きは出来ない、ミスは許されない仕事、そうした人々の想いを描けば、ふざけた国会議員は引退して欲しいし、政界へ二度と入らないで欲しい、と思うのが国民の切なる願いと心情でありましょう。
今年の夏の参院選挙は、アホ面したアホが多く立候補して、迷惑な感じを抱いた国民の民意が、あの低投票率となった事であろう。
だからこそ、興味がないではなく、キモイ、ムカつくを越え、安倍晋三元総理の国葬をし、一区切りで、静かに秋を迎える。
秋風は、おそらく心地良いものでありましょう。