義母からしてみたら、娘と孫をお肉の事で困らせる厄介な娘婿。何やら怪しげな新興宗教にはまったと思われても仕方ありません。
しかし、私はスピリチュアリズムを誰に強制されるでもなく、自分で調べ、理性で判断し、その素晴らしさに感銘を受け納得して行動しております。
自己犠牲についての誤解を解かねばなりません。この世限りで人生が終わりと思うなら自分を犠牲にするのは人生を放棄し、残された者を悲しませる愚かしい生き方と思われても仕方ないですが肉体を脱ぎ捨てた後も人生は永遠に続く訳です。人生は修行の為、試練を乗り越えて人の役立ち、霊的に成長する為にあるのです。
もし、我が子が車に跳ねられそうになったら何の躊躇もなく庇いますよね。この時、親は自分の身を案じるでしょうか。我を忘れて必死に子供を守ろうとする筈です。
これは自己犠牲を伴う親の愛です。自分の都合など微塵にも思わず相手の為に全てをかけて自分を役立たせる。
自己犠牲を伴うからこそ魂は存在意義を増し成長するのです。ここで躊躇する様なら子供より我が身の方が大切という事になってしまうでしょう。
今度はホームから酔っ払いが転落しました。見ず知らずの人です。躊躇せず飛び降りて酔っ払いを線路から押し出して助けた本人は電車に跳ねられて亡くなってしまいました。
後者は地上人にはとても真似の出来ない自己犠牲です。我が子になら滅私の気持ちで助けに飛び降りても、見ず知らずの人に自分の命を顧みずに飛び降りれるなんて何と尊い行いでしょう。
自分に近い家族には愛を与える事が出来ても自分より遠い存在の人には愛を与えづらいのが私達地上人だと思います。
それだけ自分より、家族より、外に向けた愛の方が遥かに難しく、大きく、尊い行いであると言えます。
〝家族は助けても他の人は知らない。〟
よりも、〝どんな人でも我を忘れて助ける〟方がより大きな魂だと思いませんか。
自分に近い存在程、利己性が強いのです。その為、人類を霊的同胞意識を持って血縁の繋がりより優先し、滅私の気持ちで家族同様に大切に思えるかが愛の大きさが分かる指標ではないでしょうか。
勿論、家族を蔑ろにして他者を大切にしなさいと言ってるのではありません。
家族も大切です。それよりも他者を優先する事の方がもっと必要な事です。
より大きな愛がなければ出来ないし、これまで人類が血縁に近い存在しか大切にしなかったから争い、奪い合いが生じて来たのです。
その為に自分や家族より、他者を優先する姿勢、思いやりを持ちましょうと言っています。それを究極の表現する形が自己犠牲と言ってるのです。自分達の都合を挟まない他者への愛です。
(自爆テロなどの自己犠牲とは動機、目的と意味が全く違います。)
御母さんは家族を大切にしていないと仰いましたが、私と御母さんの視点が違うだけで家族の事を大切に考えています。表面的な葛藤の部分だけで判断されたら娘を不憫に思うのも分かります。
しかし、肉食は飢餓を生み出し、動物を殺し、環境を破壊し、家族の健康面と全てにおいて良くないと思っています。
しかし、妻や娘、母、御母さんの気持ちも尊重して妻には食べたければ好きにしていいよと伝えてあります。菜食は私の中での決め事で家族に強制するつもりはありません。
勿論、それぞれの自主性に任せ、家族全員で菜食、スピリチュアリズムを受け入れられたらとても素晴らしいと事だと思っています。
喧嘩も沢山しました。それでもひた向きに協力してくれる妻にはとても有難いと感謝しています。
人に絶対迷惑を掛けては駄目だと言われましたが、肉食は途上国の人達の食糧を間接的に奪う行為です。そういう意味で私は菜食する事で家族より途上国の人を優先して人に迷惑をかけない様にしようと心掛けています。
以上が話のだいたいの内容です。
自分達の肉を食べたい欲、忙しさ、作る事の悩み、変化を恐れるのと生きたくても食べる事もままならない人々の悩みと大霊から見てどちらが大切でしょう。
義母との会話はこれ以上は押し付けになりかねないと判断してこの辺で終わりにしました。
以上の体験から、私は自分の家族よりも優先して時期の来た人にもっと力を注ぐべきであると思います。
そういう意味で自身の体験を記事にしています。一人でも多くの方の気付くきっかけになれればと思います。
しかし、私はスピリチュアリズムを誰に強制されるでもなく、自分で調べ、理性で判断し、その素晴らしさに感銘を受け納得して行動しております。
自己犠牲についての誤解を解かねばなりません。この世限りで人生が終わりと思うなら自分を犠牲にするのは人生を放棄し、残された者を悲しませる愚かしい生き方と思われても仕方ないですが肉体を脱ぎ捨てた後も人生は永遠に続く訳です。人生は修行の為、試練を乗り越えて人の役立ち、霊的に成長する為にあるのです。
もし、我が子が車に跳ねられそうになったら何の躊躇もなく庇いますよね。この時、親は自分の身を案じるでしょうか。我を忘れて必死に子供を守ろうとする筈です。
これは自己犠牲を伴う親の愛です。自分の都合など微塵にも思わず相手の為に全てをかけて自分を役立たせる。
自己犠牲を伴うからこそ魂は存在意義を増し成長するのです。ここで躊躇する様なら子供より我が身の方が大切という事になってしまうでしょう。
今度はホームから酔っ払いが転落しました。見ず知らずの人です。躊躇せず飛び降りて酔っ払いを線路から押し出して助けた本人は電車に跳ねられて亡くなってしまいました。
後者は地上人にはとても真似の出来ない自己犠牲です。我が子になら滅私の気持ちで助けに飛び降りても、見ず知らずの人に自分の命を顧みずに飛び降りれるなんて何と尊い行いでしょう。
自分に近い家族には愛を与える事が出来ても自分より遠い存在の人には愛を与えづらいのが私達地上人だと思います。
それだけ自分より、家族より、外に向けた愛の方が遥かに難しく、大きく、尊い行いであると言えます。
〝家族は助けても他の人は知らない。〟
よりも、〝どんな人でも我を忘れて助ける〟方がより大きな魂だと思いませんか。
自分に近い存在程、利己性が強いのです。その為、人類を霊的同胞意識を持って血縁の繋がりより優先し、滅私の気持ちで家族同様に大切に思えるかが愛の大きさが分かる指標ではないでしょうか。
勿論、家族を蔑ろにして他者を大切にしなさいと言ってるのではありません。
家族も大切です。それよりも他者を優先する事の方がもっと必要な事です。
より大きな愛がなければ出来ないし、これまで人類が血縁に近い存在しか大切にしなかったから争い、奪い合いが生じて来たのです。
その為に自分や家族より、他者を優先する姿勢、思いやりを持ちましょうと言っています。それを究極の表現する形が自己犠牲と言ってるのです。自分達の都合を挟まない他者への愛です。
(自爆テロなどの自己犠牲とは動機、目的と意味が全く違います。)
御母さんは家族を大切にしていないと仰いましたが、私と御母さんの視点が違うだけで家族の事を大切に考えています。表面的な葛藤の部分だけで判断されたら娘を不憫に思うのも分かります。
しかし、肉食は飢餓を生み出し、動物を殺し、環境を破壊し、家族の健康面と全てにおいて良くないと思っています。
しかし、妻や娘、母、御母さんの気持ちも尊重して妻には食べたければ好きにしていいよと伝えてあります。菜食は私の中での決め事で家族に強制するつもりはありません。
勿論、それぞれの自主性に任せ、家族全員で菜食、スピリチュアリズムを受け入れられたらとても素晴らしいと事だと思っています。
喧嘩も沢山しました。それでもひた向きに協力してくれる妻にはとても有難いと感謝しています。
人に絶対迷惑を掛けては駄目だと言われましたが、肉食は途上国の人達の食糧を間接的に奪う行為です。そういう意味で私は菜食する事で家族より途上国の人を優先して人に迷惑をかけない様にしようと心掛けています。
以上が話のだいたいの内容です。
自分達の肉を食べたい欲、忙しさ、作る事の悩み、変化を恐れるのと生きたくても食べる事もままならない人々の悩みと大霊から見てどちらが大切でしょう。
義母との会話はこれ以上は押し付けになりかねないと判断してこの辺で終わりにしました。
以上の体験から、私は自分の家族よりも優先して時期の来た人にもっと力を注ぐべきであると思います。
そういう意味で自身の体験を記事にしています。一人でも多くの方の気付くきっかけになれればと思います。
