今日は県民の祝日「慰霊の日」で学校はお休み。

子供達と早めの昼食ナイフとフォークをとっていると

う~~~~~っというサイレンパトランプの音。

子供達も窓から外を見ながら「何だろう?この音??」

う~ん、まるで空襲F-14トムキャット警報のような・・・

ハッひゃ~・・・と気が付いて、時計を見れば12時

黙祷花束を知らせるサイレンの音でした。

慌てて 「黙祷!。黙祷!!。 今日は慰霊お墓の日でしょ。 学校で習ったでしょ?」

子供達は「はあ~うぎゃぁ??」

まったくもう、学校で何習ってるんだか苦笑

戦争の記憶は、ここ沖縄でも薄れていっているってことなんでしょうかしょぼん


昨日の文化教養部の集まりでも、子供達に沖縄戦F-14トムキャットの話を伝えたいという意見が出て

戦争体験者をお呼びして、体験談をお話ししてもらったらどうかという話になりましたが

沖縄戦撃つぞ!の話はとても重く、子供達がそれをちゃんと受け止められるかという話にまでなりました。

受け止められる、られないということだけなら、まだいいのですが

恥ずかしい話、うちの中学校の生徒はとっても幼いえー

2時間じっと話を聞いていられるのか?という情けない意見まで飛び出し

講演料羽根の生えたお札も高かったことから、結局 沖縄戦の話はやめようということになりました。


沖縄戦ではありませんが、今でも忘れられない話がありますしょぼん

もう一つの激戦地ミンダナオ島の話です。


私がその女性と知り合ったのは、ハワイのESLです。

ご高齢のその女性は20年以上ハワイに住んでいるのに英語が話せないと言います。


何でもご主人がやってくれるので、今までは日本語だけで充分暮らせたのだけれど

お互い高齢になって、もしご主人に先立たれたら一人で暮らしていけないということで

一念発起。 英語を勉強することに。


彼女の身の上話を聞いているうちに戦争の話しになりました。


彼女がまだ幼い時か生まれる前、彼女の両親はミンダナオ島に移住したそうです。 

島の人たちとの関係は良好で楽しく暮らしていたといいいます。

そんな中、彼女が14才の時に戦争が起きました。

しだいに島の人との関係は悪化。


ある日、彼女のいる日本人学校にミンダナオの兵隊が来て

そのまま家に帰れなくなってしまったそうです。

何日も学校に閉じこめられた彼女が見たものは

兵士が校舎の下をほじくり返しては、何かを埋めている姿。

兵隊達は大量の油の入ったドラム缶を校舎の下に埋め、火をつけて一気に焼き殺すつもりでいたようです。

そこに日本兵が来て、彼女たちは助け出されました。

あと一日来るのが遅ければ、きっと焼き殺されていただろうと彼女は言いいます。


最初は優勢だった日本軍も、物資の補給を断たれ次第に劣勢に。

とにかく輸送船がみんな沈められ、最後には弾さえない状態で戦っていたといいいます。

彼女の家族は兵隊達と森へ逃げ、昼は動かずジッと隠れ、夜の闇にまぎれては移動を繰り返したそうです。


彼女はたくさんの死を目にしていました。

隣にいた兵隊さんが爆弾で細かい肉の破片になって飛び散り

自身も、爆音で耳をやられ 丸一日何も聞こえないこともあったそうです。

森の中には、ありこちに屍が横たわっていて、ウジがわいていて

よく見ると、まだ生きているのに自分でウジを払う力も残っておらず

生きながらウジの餌になっている者。 「助けてくれ」と懇願する者。

しかし彼女はただ手を合わせて、そこを立ち去るしかなかったそうです。

そんな中、彼女は「死」ということに対しだんだん麻痺していったそうです。

「怖い」という感情はなく、幾度となく訪れた命の危機にも

「ああ、自分の番がきたんだな」としか思わなかったそうです。


彼女には忘れられない死があります。

ある晩、洞窟の中で幼い男の子が「お腹がすいた。何か食べたい」と言ってだだをこねていました。

隣には別の家族が干しイモか何かを分け合って食べていました。

自分が生きるだけで精一杯の状況で、食べ物を分けてくれるはずもなく

男の子は家族になだめられ、泣き疲れて「お腹がすいた」と眠ってしまいました。

翌朝、男の子は死んでいました。

皮肉なことに、その日彼女はわずかな食べ物を手に入れることが出来ました。

彼女は、食べ物を見ながら 彼女の姉と「あと一日遅ければ、あの子も食べられたのに」と話したといいいます。

あの子、あの男の子。 彼女がお腹の大きなお母さんに代わっておんぶしていた男の子。 

いつも彼女がおんぶして、森の中を逃げる時も いつも一緒だった男の子。 彼女の弟だったそうです。


それからしばらくして戦争が終わりました。

空から「戦争が終わったので、森から出てきなさい」という紙が雪のように降ってきたそうです。

でもみんな「これはきっと罠だ」といって信じず、そのまま森に隠れていたそうです。

紙が降ってきてからは砲撃がピタッとなくなり、三ヶ月ほどして大人が様子を見に行くと

本当に戦争が終わっていました。


彼女は日本への引き揚げ船に乗りましたが、母親は乗せてもらえませんでした。

森の中で出産し、その後体調が悪く、熱もあったので乗せてもらえなかったそうです。

「後から行くから」と残った母親は、そのまま帰らぬ人となってしまいました。


彼女の父親も戦争の犠牲者になっていました。

彼女の父親は、別の部隊と行動を共にしていましたが

自分の家族が、川を渡った洞窟に逃げているという話を聞き

「川を渡るのは危険だ」という みんなの制止を振り切り

「自分は家族の所に行く」と川を目指したといいいます。

結局、彼女の父親は川を渡りきることが出来ませんでした。


そして、彼女の苦しみは日本へ帰ってきても終わりませんでした。


彼女は日本に帰ると、母方のおばあちゃんの家に身を寄せましたが

そこでのイジメは相当なものだったようです。


戦後の日本。 いきなり現れた自分の孫だという娘。 顔も見たこともない孫。

確かに自分の娘はミンダナオに移住した。 

でも肝心の娘は帰って来れず、見たこともない娘が孫だといってここにいる。

本当に自分の孫なんだろうか? そんなことを考えても、おかしくない時代だったのかもしれません。


その家には、内孫も一緒に住んでいたそうですが

扱いは雲泥の差だったようです。

彼女は使用人のように、朝一番で起き 掃除、洗濯、畑仕事。 家事の一切合切をまかされ

夜はみんなが寝静まってからも、つくろい物をしてやっと就寝。

食事は一番最後の みんなの残した物。 不平を言えば叩かれたり、罵声を浴びせられたそうです。

彼女は、お餅やお菓子をもらって、美味しそうに食べるもう一人の孫を

お腹をすかせて見ていたそうです。


その後、彼女は家を飛び出し

流れ流れてハワイにたどり着くのですが、

そのハワイでも戦時中は大変なことが起きていました。

唯一、日本人同士が戦わなければならなかったのがハワイです。


私はかろうじて、戦争の話を直接聞く機会がありましたが

これから、どんどんその機会は減っていくでしょう。

子供達がその話を受け止められる、られないは別として、

私達には、伝えていく義務があるし、

子供達には聞く権利と聞かなければならない義務があると思います。

同じ過ちを繰り返さないために。