私の生まれた滋賀の湖東地区では、小さいころから井伊直弼と言えば、英雄のように聞かされていました。また、井伊家は家康の時代から活躍をしていました。そして、徳川幕府では譜代大名として要職に位置にありました。現に直弼まで13代の中で5人が大老を務めていたのです。井伊家は35万石(徳川家以外では前田家に継いで2番目の石高)と言われ、江戸時代を通じてずっと彦根藩の城主でした。また昭和の時代には直弼の曾孫の直愛が彦根市長を9期も務めました。まさに、今でも彦根では井伊家の存在は大きな存在なのです。特に私の通った高校は旧彦根藩の藩校で彦根城の中にありましたし、大学もすぐ近くでしたので、私にとっても井伊直弼は誇りに感じる存在だったのです。




しかし、滋賀県の出身でない私の家内はまるで悪人のような印象を持っています。多分、安政の大獄で開国反対派を処罰したことや、朝廷の勅許がないまま、日米修好通商条約を締結したことが悪い印象を持たれている原因だと思います。確かに、この例からすると英雄にはほど遠い存在だったかも知れません。




評論家風に考えてみましょう。



ある評論家は「開国反対者を殺害するのは間違っている。もっと議論を重ね民主的に解決すべきだ。」とか「日米修好通商条約も不平等条約で後に大きな課題を残した。」とか指摘するでしょう。そして、直弼は日本にとって大きな功労者とは言えないとの判断を出すでしょう。




また、ある評論家は「もし反対派のように開国しなかったら海外から侵略され、悪い場合は植民地になっているかもしれない。先見の明があった。」と評価するかもしれません。




どちらの評価が正しいかはわかりませんが、どちらかといえば「反対派を粛清した。」ことなどが大きな評価ポイントになって「直弼悪玉論」が多いかも知れません。




ここで現代風にリーダー論として考えてみるとどうでしょうか。




直弼は、11代藩主直中の14男として生まれ、32歳まで「埋木舎」と言われる屋敷でひっそりと暮らし、出世の見込みのない立場でした。この間、文化人としての素養を磨き過ごしたと言われています。特に茶の湯は秀でていました。茶の湯で使われる「一期一会」という言葉を非常に重視したとも言われています。




それが、兄たちの死などにより、突然彦根藩主・大老にまでのぼり詰めたのです。

彦根藩主となってから、ほかの領主に比べ、藩地を良く回り現場を重んじたとも言われています。しかし、不運だったのは、黒船が押し掛け、開国派・尊王攘夷派で国内が二分される中でリーダーになったのです。まさに火事場のリーダーになったのです。


火事場であればあるほど、リーダーは大きな矛盾に満ちた状況に置かれ的確な決断を迫られます。平時のように、話し合いで決めると言ったことが通じないかもしれません。

ここが、リーダーと評論家との違いです。文化人で教養を修めた直弼ですから、反対派を粛清したいとは思わなかったでしょうし、条約も更に合議に重ねたかったでしょう。それができなかったところにリーダーの苦しさがあります。


私は、どうしても直弼の評価如何よりむしろリーダーの苦しさを私は感じてしまいます。




直弼の例にもありますが、何事に対しても批判の目は持つべきですが、もう少し決断する立場の苦しさを理解しなければいけないことも多いかもしれません。