賃貸された部屋のうち二階部分は
10室で全て四畳半だったらしい。
(押し入れは除く)
その他、共同の調理場、トイレなどが
存在したとのこと。
トキワ荘の住人としても有名な手塚治虫さんは、
1952年に上京してから東京都新宿区四谷の
八百屋の2階に下宿していたが、やがて昼夜を
問わぬ編集者の出入りの激しさについて
八百屋の主人から苦情を言われるようになったらしい。
このとき手塚は、学童社の方の住む新築アパート「トキワ荘」に
入居するよう誘われ、1953年の初頭にここの住人となったらしい。
これを皮切りに、学童社が、自社の雑誌で連載を持つ
漫画家の多くをトキワ荘へ入居させた、とのこと。
最も多い時期には7、8名の漫画家が居住し、
その仲間の漫画家も出入りするようになったため
『マンガ荘』というニックネームまで付けられたとの
話もある。
才能ある漫画家たちがトキワ荘に集まった背景には、
寺田ヒロオの「空いた部屋には若い同志を入れ、
「ここを新人漫画家の共同生活の場にしていきたい」
「新人漫画家同志で励まし合って切磋琢磨できる環境をつくりたい」
との思いがあったほか、
「漫画家が原稿を落としそうになった際、他の部屋からすぐに助っ人を
呼べる環境が欲しい」という編集者側の思惑と
「他の漫画家の穴埋めでもいいから自分の仕事を売り込む機会が欲しい」
という描き手側の利害の一致もあったとされている。
それらの若手漫画家達は後に著名になり、その漫画家達によって
同じアパートに住んでいたという事実が世間にも伝えられるようになった。
なお、トキワ荘への入居と仲間入りに際しては、メンバーたちにより、
- 『漫画少年』で寺田が担当していた投稿欄「漫画つうしんぼ」の中で優秀な成績を収めていること。
- 協調性があること。
- 最低限、プロのアシスタントが務まったり、穴埋め原稿が描けたりする程度の技量には達していること。
- 本当に良い漫画を描きたいという強い意志を持っていること。
といった基準で厳格な事前審査が行われていたとされている。
こうした背景を考えると、トキワ荘に居住した(できた)のは
単なる若手漫画家ではなく、選び抜かれた漫画エリート達であり、
トキワ荘から多数の一流漫画家が世に出たのは
偶然ではなく必然だったと指摘されている。
なので、漫画家志望の方をシェアハウスへ集めたからといって
みなが有名になるわけではないのである。
大前提に、
漫画家志望の方の努力と才能、編集者の眼力がないと
成功しないということである。
現代版「トキワ荘」を成功させるためには
その部分を成立させられるかどうかが
肝になってくるのである。
