18歳の時ににーちゃんとワッタンと『EARTHSHAKER』を結成したんだけど、ワッタンの家の倉庫を自由に使えたんで、アンプを持込んでそこで每日曜日練習をしてた。
バンドを固めるため最初は VAN HALEN, RUSH ,UFO とかのコピーもしたけど、僕らはメキメキ上達しすぐにオリジナル楽曲を創りだした。

『オリジナルができたらデモテープでしょ。』となり、
みんなでお金をだして、谷町九丁目のウエルズ楽器でマイクとマイクスタンドのセットを6組とミキサーを借り、電車でそれらを神戸のワッタンの家まで持っていった。
ウエルズは高校の時から通ってて馴染みがあったし、かなり安くはしてくれたんだけど、今から考えるとなんで神戸でそれらを借りなかったのか不思議だ(笑)
というのも、右手にギター、左肩にはスタンドの入った大袋で、移動はめ~ちゃ~く~ちゃ~大変だったのを今だに覚えてるからなんよ。
にーちゃんもマイクにミキサーで肩がもげそうなはずだったのに文句一つ無かった。
若い2人は相当燃えてたんだね。

で、出来たデモテープを一人でいろんなライブハウスに持っていったんだけど、その頃の大阪はブルースとソウル、ウエスト・コーストが主流で、当然アマチュアのハードロックバンドは門前払いばっか(涙)

「もう無理か?」って落ち込んでたんだけど『BAHAMA はハードロック大丈夫かも』って教えてもらい、デモを持って行くことにした。
前もって電話で問い合わせたら「ライブは土日で平日はBARとして営業してるんで夜の7時過ぎに店に来てくれ」とのこと。
夜ってこともあり、地下に降りていくBAHAMAへの階段が不良の香りでめちゃくちゃ怖かった。
一人だし、何度も門前払いが続いて不安まくりのビビりまくりで、降りて行く途中で引き返しそうになった。
ほんとは普通に短い階段なんだけど、あの時は果てしなく長い階段に感じたな~。
思い出すときはなぜかスローモーションになってるし(笑)

けど「ここで僕が頑張らないと。」と決心して降りて行ったんよね。
あの時降りて行かなかったら今と違う人生を歩んでたと思う。
大阪の音楽シーンも別なものになってただろうね。

その後僕らは BAHAMAで可愛がってもらい、僕はバイトもするようになった。
BAHAMAでいろんなバンドをみていっぱい学んだ。
オネーさん(お店のママさん)にはバンドのあり方を厳しく叩きこまれた。
BAHAMAがないと今の僕はない。
でっかい中華鍋で一気に4人前の焼きそばをつくれるようにもなったしね(笑)

2枚の写真は BAHAMA でのバイト時代。
カウンターでの立ち仕事なんでブーツじゃなくスニカー履いてたんだけど、それにしても黄色のコンバースがばっちい(笑)
伊藤政則さんが「アマチュアとプロの差は靴見れば分かる、お前はプロなのになんでそんなに靴が汚いんだ!」といつもクドーを叱ってたのをこの写真を見ていきなり思い出した(笑)
この黄色のコンバースはまさにアマチュアの証だね。
この写真は伊藤さんには見せられないな~。





バイトの期間はそんなに長くはなかったんだけど、BAHAMAには想い出が詰まりまくり。
2006年に店を閉めちゃったのは寂しいけど BAHAMA は永遠。
僕が死んだら魂はあそこに行くんじゃないかと思ってる。




BAHAMA のWEBがまだ残ってた。