この記事の前提として、映画について記します。以下の事柄が原作にも当てはまるとは限りません。また、映画をご覧になったあなたがどう感じられたかが一番大切にすべきことなので、真に受けすぎないでくださいね。原作者の大今先生の言葉を借りれば、所詮私のフィルターを通して見たものでしかないので。それではご覧ください。

 

 

 

映画『聲の形』は主人公石田将也の物語で、心を閉ざして他人の聲を聞けなくなった将也が、全編を通して閉ざした心を開き、将也の世界が開けていく物語です。

 

将也の成長は明確に描かれましたが、ラストシーンの、文化祭の廊下でみんなが集まる場面では、相変わらず植野と川井は口論し、真柴は「君はすごいよ」とどこか他人事、佐原は「石田君が大変だったっていうのに、まるで変わってない」と言ってしまいます。では将也以外のキャラクターたちは成長できなかったのでしょうか。

 

 

いいえ。そもそもこの作品における成長とは、コンプレックスというコブの物理的除去ではなく、コブをねんごろに思うの内面的受容だと私はと考えます。

 

 

将也昏睡中に永束と腹を割って話をした硝子は、その後川井、真柴、佐原、植野に会いに行きます。その時にsvgという曲(私はsvgを「引っ張り上げる」「救出する」という意味のsalvageと解釈しました)とともに、硝子がそれぞれのコンプレックスを受け止めてあげます。植野と硝子は劇中では会話は映りませんでしたが、あのシーンは将也と結絃の和解のシーンのリフレインとなっているので、なんらかの積もる話でもあったのでしょう。

硝子に打ち明けることでそれぞれが自分自身を見つめ直し、みんなを、そして自分自身を受け入れられるようになります。

 

私ははじめ、将也に橋で提示されたそれぞれの課題が解消されることを期待してしまっていました。しかし、山田監督は別の形で彼らに答えを示しました。山田監督はコンプレックスをそのままでいいとしました。

 

コンプレックスがあるかもしれない。でもそれは欠点ではなく個性であり、あなたはそれでいいよ、それがあなただよ、と認めてあげる、許してあげる。決して諦めのような消極的なものではなくて、そもそもそれはマイナスではないよと肯定してくれる。映画『聲の形』は、山田監督のそのようなやさしさに満ちた温かい作品だと思います。ほんとにやさしい。とにかくあったかい。

 

舞台挨拶やインタビュー記事等にて、監督やキャストの方々がよくおっしゃっていたのは、「観た人が許されたと思ってもらえたら」という言葉でした。私もこの作品からたくさんのものをもらいました。関係者各位から本当に愛されて作られた映画『聲の形』。観る度に新しい気付きがある映画なので、ぜひ何度もご覧になってください。