さて、ごそごそと書き連ねて第4弾。シャオです(´∇`)ノんばっス



前回、すばらしい高校生活の始まりからを書きました。


が。


その直後。またまた思いもよらぬ出来事が起こります。

そう、その年はあの阪神淡路大震災があった年。地震が起きたという報道を見て

夕方になる頃には死亡者数も恐ろしいほどの数に膨れ上がり、テレビに映し出される

神戸の町の景色が、あまりにも凄惨でこれはどこか違う国の出来事であって欲しい

なんて、思わずには居られませんでした。


確か、同じ頃にオウム真理教の強制捜査等もありましたね。年明けから

大きな事件が多かった一年でした。



話は変わり、私自身にとってもこの年は忘れられない一年となりました。



それは、1月も後半に差し掛かった頃だったでしょうか。

見覚えの無い人が母を訪ねて来ました。唐突に。


その人と母は何やら話しこんだ後、しばらくしてどこかへ電話をかけ

長時間話をしていたようでした。



そして、数日が経ち



いつになく真剣な様子で、母が私に大事な話があるから。というので

何を改まって、何かあったのかな。とその話を聞くことに。



母が、もともと大阪の出身という事は知っていたのですが、徳之島へ渡る事になった

きっかけも、大阪に居るはずの親戚の話も深く聞いたことはありませんでした。

ただ、母はちょうど日本が太平洋戦争へと突入する直前、昭和12年の生まれで

母を含めて9人の兄弟姉妹が居るという話は聞いていました。

それと、母の両親、私の祖父も祖母もすでに他界しているという事も。


私の叔父さん、とは言ってもそういう状態なので面識はまったくありませんが

母の兄にあたる方が危篤状態になっている。

それを伝えるために先日の来客があったという事。


そして、叔父さんが母にどうしても会いたがっているということ。



母は、20数年ぶりに大阪へ行くつもりだと私に話しました。


ああ、俺はそういうの苦手だし親戚といってもまったく面識もないから

俺は島で待ってるから行っておいでよ。


私は母にそう言ったのですが、母は何か辛そうな表情をしながら

どうしても私にも一緒に来て欲しいと言うのです。



そして、母の口から出た言葉を私は信じられなかった。



お前に会わせておかなければいけない人が居る。しばらく考え込んだ後母は

苦しそうにこう言いました。


大阪には、お前の兄姉が居る。だから、一度会わせとかなと思ってる。


何のことか、当然わかりませんでしたがよほどの事なんだろうなとは感じました。



しかし、まさか


自分に父親違いの兄と姉が居るとは。



その話を聞いた時、私は16になったばかりでした。

そして、その16年間は母と二人で生きてきた。



私には兄弟も親戚も居ない。二人なんだ。そう思って生きてきた。



その中で、突然の母の告白にとても戸惑いました。

嬉しいような、どこか、悲しいような。

そして、その告白と兄姉が居るという事実。その裏側にある様々な事柄に

大体の察しもついたので、変かもしれませんが申し訳ないような気がした。


そう、私は母に育てられた。例え貧しくとも幸せだった。

でも兄と姉は違う。その事に罪悪感に似た気持ちを感じました。


母の、どうしてもその兄と姉に私を会わせたいという気持ちがわかったので

少なからず抵抗はあったのですが、大阪へ行くことにしたのでした。



母親の言葉は関西弁、私の言葉も関西弁。でも

生まれてはじめての大阪。そんないきさつが無ければ、わくわくしていたでしょうが

なんとなく、心に重くのしかかる様々な感情の為に気持ちは沈んでいたのを覚えています。


徳之島から飛行機で鹿児島へ飛び、そこから飛行機を乗り継ぎ大阪へ。

今はどうかわかりませんが、以前は鹿児島で飛行機を乗り継ぐ為に2時間ほど

待たなければいけなかったのですが、その待ち時間の間も憂鬱な気分のまま。


伊丹空港へ降り立って空港玄関を出た時に、最初に感じた事は

なんて、空気がくさいのだろうって思った事。

その次に、ちょうど一月末あたりだったのでとても寒かったのを覚えています。



と、ここまで書いてきましたが、少し疲れたので今日はここまで。

次は後半という事で。