真実の私(私とは誰か?)

私は、1989年8月、交通事故で頸随損傷という怪我をして、身体障害者となった。
その交通事故の時のことを紹介して、私の自己紹介とします。

私は、路上に倒れたまま救急車の到着を待っていた。
転倒直後から首から下の感覚は全くなくなっていた。
首から下の四肢身体は何の感覚もなく、首から下はどこかに行ってしまっていて、手も足も胴体もどこにあるのか分からない、頭だけが路上に転がっているという感じだった。
その内、呼吸がおかしな感じ(深く吸えないような感じ)になっていることに気付いた。
私の肉体は、非常事態を私に告げていた。肉体は、それまでの言葉だけであった「死」が現実のものとなってもおかしくない状況にあった。

私はその時、人生で初めて「死ぬかもしれない。」と思った。私は「死ぬかもしれない。」という思いを持った時、次に私の頭をよぎったのは「死んだらどうなるのだろう。どこに行くのだろう。」ということであった。
死体は見た事があり、肉体がどのような状態にあるのを「死」と言うのかは知っていた。しかし、この「死ぬかもしれない。」という思いに直面した時、それまで知っていた「死」は、言葉の表現でしかないという事が分かった。私は深い意味で「死」について考えたことはなく、知っていたのは肉体は死ぬという現象だけであった。

私の記憶の中に、死全体についての深い意味での答えはなかった。

私は、「死」とはどのようなことであるのかその深い意味を知らないことに気付いたが、死ぬかもしれないような状況の時に、そのようなことに気付いてもどうにもならないことであった。本当に参ったと思った。私はそれまでの人生での経験から人並みの事は学んではいた。しかし、私がこれまでの経験から知っていたことは、真の意味での私以外の事ばかりであった。

それは、救急車を待つわずか数分の間の私の思いであった。
この時初めて私は、私自身のことについては、ほとんど何も知らなかったことに気付いたのである。

それまでの私は、私自身のことについて、どれほどのことを知っていたのだろうか。氷山に例えれば、水面上に出ている一角の中のほんの一かけらを、かろうじて知っていたくらいのもであろう。

私は、「私」とは誰か、真実の「私」を知ることこそ、人間という肉体を持って生まれてきた存在の真の目的であることを知った。

真実の「私」とは誰でしょうか?

自己を認識するのは目覚めていて思考している時と、夢を見ている時ですが、肉体は熟睡中も生命あるものとして存在しています。
熟睡している間は、目覚めている時や夢見の時のような意識はなく思考することもないため、肉体のことや外部のことについては全く認識することはありません。
普段「私」と言うときは、意識があり思考している時に自己を認識してそのように言いますが、この意識がある時に認識する「私」とはどのような存在なのでしょうか。
認識しているか否かは別として、肉体および人格を称して普段「私」と言っていることが分かります。
「私」は肉体と人格のみだけなのでしょうか。

肉体について考えることにします。
肉体は細胞の集合体で物質です。細胞は有機物と無機物で構成されております。
人間の肉体は約37兆個の細胞によって形作られてれているといわれています。
細胞は、細胞分裂により次々と新しい細胞が作られ、肉体は新鮮な細胞によって機能し活動しています。
1つ1つの細胞の中には、人間としてのその人固有の遺伝子があり、その遺伝子は肉体の設計図として知られています。
細胞も遺伝子も物質です。
そのような物質の集合体である肉体は、1日を、考え、動き、眠ります。
肉体のすべての生命維持や体内環境の調整に重要な役割を果たす器官は24時間を通して機能し、機能している時肉体は生命体として存在しています。物質である肉体を機能させ、生命体として存在させている何者かが肉体の中に存在しているに違いありません。
その何者かは仮定である存在ですが、仮定であると言い切ることはできません。

普段「私」と言うときは、肉体および人格を称していることは前述の通りですが、そうであるならば、肉体を生命体として存在させているそのような存在をも含めて「私」と称していることになります。
しかし、普段の日常ではそのような存在を自覚することもなく、また、そのような存在について考えることもしません。
ここではそのような存在を「それ」と呼ぶことにします。
「それ」は、思考によって存在すると推察することは容易です。
「それ」が存在している時、肉体は生命体として存在し、「それ」が存在しなければ肉体は単なる物質でしかないと言えるからです。
そうであるならば、「それ」は仮定としての存在ではなく、肉体を生命体として維持している存在であり、究極の存在としての生命体の根源のエネルギーであると言えます。

肉体を生命体として存在させている究極の存在である「それ」、生命体の根源のエネルギー「それ」は本当に存在するものでしょうか。「「それ」は、全ての生きている人に内在していることが理解できます。
「それ」は一体どのような存在なのでしょうか。
「それ」は物質なのでしょうか。物質ではない存在なのでしょうか。
「それ」は、物質である肉体が生命あるものとして機能する原因として存在するものであると推察できます。
そのような「それ」が存在するか否かを知らないため、「それ」についての思いはなく、関心を持つことはない。「それ」が存在していたとしても「それ」に意識をむけることがないため、「それ」を認識することはない。
私たちは感覚器官(目、耳、鼻、口、触感)を通して認識する世界にのみ意識をむけています。
つまり、外部世界に対する関心です。
日常生活は、外部世界に対する関心だけであり、推察できる内在する「それ」と称するものについて、意識したり考えたりすることはないため、肉体を生命体として維持している存在については無知のままを日々を送っている現実しかありません。

それでは、「それ」を知ることはできるのでしょうか。
外部世界に現象するものは感覚器官を通してこころが認識するのですが、「それ」をこころが感覚器官によって認識することは不可能であると言えるでしょう。
こころは、感覚器官を通して現象世界で認識したものを経験として蓄積します。
こころは、思考する機関ですが、思考は経験が基盤となっています。
経験とは、感覚器官を通してもたらされた現象世界で見たり聞いたりした過去の出来事の記憶です。自然界の営み、人間世界の文化、伝統、慣習、宗教や学習などによって体験したことを、経験としてこころは蓄積します。

思考の基盤が経験であるならば、こころはまだ「それ」を認識していません。なぜならば、こころは経験したことのないことについては何も知らないからです。
こころは経験することによって、「それ」を知ることは可能なのでしょうか。
「それ」を知ることができるのは、経験を認識することができるこころであると言えます。
「それ」は前述の通り肉体に内在するものですから、外部世界に「それ」を探そうとしても知ることはできません。

こころは、「それ」をどのようにすれば知ることができるのでしょうか。
こころは、経験によらなければ何も知ることはできず、こころがこれまでに経験したあらゆる記憶は役に立たないと言ってよいでしょう。「それ」は、こころが経験する以前の時から存在し、こころが思考する以前から存在していた「それ」であり、こころも「それ」によって機能していると言えます。
「それ」をこころはどのようにすれば認識することができるのでしょうか。
こころが経験したことは、感覚器官を通して知る外部世界のことでした。
こころは外部世界の投影であり、外部世界そのものであり、外部世界でできています。

内在する「それ」について、こころは何も知りません。
こころは、今までの経験によっては「それ」を知ることはできません。
今、こころにあるのは、外部世界に対する強烈な執着です。こころが、その執着の壁を越えることは並大抵のことではないはずです。
こころは、経験という色眼鏡であらゆるものを見ます。こころには、分析し比較する思考と、それによってもたらされる好悪という感情があります。

こころは、「それ」を知るために何を学べばよいのでしょうか。
こころは、思考をあるがままに観ることを学ばなければなりません。
それは、まず持って思考する者は私であると言えるからですが、そのような私を知り、思考を理解しなければならないからです。
思考を理解する最善の方法は、あるがままに思考を観ることなのです。
あるがままに観るとは、ただ凝視しつづけるという作業であり、その対象は思考です。
あるがままに観るということは、見つめ続ける行為自体に、記憶による分析がなく、記憶との比較がなく、記憶との同一化がなく、記憶による批判がない境位を言います。

思考をあるがままに観るとき、こころは、経験によって形成された”思考する「私」”は、”真実の存在である「私」”ではないことに気付くのです。
こころは、肉体や思考ではない”真実の「私」”が存在することを推察することができるのです。

こころは、「それ」を知ることはできるのでしょうか。
こころは、知識にはない存在が、真実の「私」=「それ」であることを、推測によって知ることができるのです。
しかし、真実の「私」=「それ」が誰であるかを、こころはこの段階で知ることはできません。
あるがままに観続けることによって、こころは変革を起こします。
こころは、気付きの状態を自らが創りだすに至るのです。
気付きとは、何かを求めようとか、何かになろうとかという願望のない状態であり、何かを気付こうという思いもない状態を言います。
気付きの状態にある時、こころにはどのような問題も存在しません。こころは静寂なのです。

そのような状態にある時、こころは静寂の中にあって、普通の状態では認識することのないあるものが存在するとの認識に至るのです。
そのあるものの認識とは、心がそのようなものが内在するものであるとの実感としての認識であり、そのある存在を最も適切な言葉で表現すれば「意識」という言葉になります。

意識には、感覚機関からもたらされる自覚できる意識で、日常生活での判断や行動をコントロール役割の顕在意識と、過去の経験則によってもたらされる無意識の領域で、自覚できない感情や知識、経験が蓄積した潜在意識がありますが、いずれも外部世界から得た自己の記憶を原因とするもので、行為の源にあるものと言えましょう。
しかし、そのような意識ではなく、こころが静寂を通して認識した「意識」という言葉に表現される「それ」は、「それ」自体がそのように存在する「意識」であるとのこころの実感に基づくものであり、「意識」という言葉でしか言い表すことができない「それ」なのです。
この「意識」が、「それ」であるとの証明は、どのような論理によっても説明することは不可能です。
なぜならば、”真実の「私」”は、顕在意識でもなく、潜在意識として説明できない意識であり、通状覚知しえない意識「それ」であるとしか言えず、言葉では説明することが困難な存在「それ」であるとしか言えないからです。

しかし、こころが完全に静寂であるとき、言葉では説明できない「意識」に出会うのです。
私たちが普段「私」と言うときは、肉体であり思考する者である「私」を指しています。しかし、その「私」は表面的な私でしかないのです。
「それ」は、肉体ではなく思考者である「私」でもなく、「それ」は、ただそのように存在する「それ」であるとしか言えないのです。

「私は誰か?」と真に問いかけた時、”真実の「私」”を知らないことに気付くのです。私は誰なのかという疑問が生じるのです。
”真実の「私」”を知ることは、人間として生まれた真の目的であると言えましょう。
”真実の「私」”を知ることによって、すべての存在に内在する「それ」もまた”真実の「私」”であることを知ることになるのです。