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マジックと奇術と手品と・・ほか少し★

手品は6歳から始めた。人生の最初の6年間が惜しい。なんてね。

今週の始めから沖縄に出張で来ています。
平日は仕事でなかなか身動きが取れませんが、今日はこちらに来てから初めての休みで、ちょっと外出。
西海岸北谷町の、アメリカンビリッジというところに来ています。
海岸の一帯に、ショッピングセンター、映画館、ホテル、飲食店、お土産屋さんなどが集まっています。
砂浜の向こうに突堤があります。

水辺をのぞくと、小さな蟹が居ました。
海に近いほうに、テーマパークのように凝ったデザインの建物が。
ここには主に飲食店が入っています。
きじむなぁというカフェで、オムタコという料理を注文。

タコライスの上にオムレツを載せた、店の独自メニューです。
普通のタコライスも目玉焼きが載っている事が多いので、そこまで意外な料理でもありません。
が、ふわふわのたまごが載った食感は、やはりなかなか良いものです。

その手前には、主にお土産屋さんなどが入った建物。

なかなかの異国情緒。

スプレーアートの大道芸をしている人もいました。


観覧車なんかもあります。
乗りませんでしたけど。

手品に限らず、芸事を身につけるための反復行動を指して、色々な言葉があります。
練習、訓練、修練、トレーニング、稽古、リハーサル、などが代表的なところでしょうか。

単なる言い換えや、日本語と英語の違いという面はもちろんありますが、それぞれにやはり異なる概念を含んでおり、芸事の習得にはどの要素も多かれ少なかれ必要となってくるのでしょう。


私はもちろんプロでもなく、そこまで手品に真剣に取り組める立場や資質があるわけではないです。また知識も足りません。
しかし一応自分なりに上記の中で、日本古来の芸事とともに語られることの多い「稽古」という概念には、ちょっと特別な意味があるような気がしています。

「稽古」が目指すものはおそらく、思考を超えた、肉体への習慣付けのようなものでしょうか。
ある種の動作が自分の肉体そのものと一体化するまで、繰り返し稽古する。そこにはごちゃごちゃとした思考はない。
英語で言うSecond Nature、第二の天性も似たような境地なのかも。


ちょっと前置きが長くなりましたが、最近自分のカップ&ボールにおいて、これが稽古によってもたらされる感覚なのか?と思えることがありました。
以前から何度か書いておりますように、私は駒込マジックルームでの「ともの会EX」において、自分のカップ&ボールについてゆうきとも師と庄司タカヒト師に指導を受けています。

これまでも、最初の頃よりは随分とよくなった、なかなかこれだけの演技は通常見られないなどと、まあアマチュアにしてはですが、それなりの賛辞を受けたことはありました。
しかし今回は、何というかこれまで全部をひっくるめても、一皮向けたというか、随分と良い演技になったというようなことを、複数の方から言われるのです。

もちろん自分としては日々良くなるように努力はしているのであり、単純に良くなったと評価されることに異存はないです。
しかし、今回の演技が以前に比べて「一皮向けた」ものであるかと言うと、自分としてはそうは思っていませんでした。
私の受け取り方が間違っていなければですが、意外な評価です。

そして、もし評価が正しいとすれば、その違いをもたらした要素が何だったのだろうか、と自問してみた場合、あるひとつの自分なりの答えらしきものが見えてくるのです。
それが、冒頭に書いた「稽古の効用」なのか?ということです。


前回までの演技と、今回の演技の、自分の中での違いをありていに単純に表現すると、「あまり考えずに手を動かした」ことと、「セリフを少なくした」ことです。
以前に、手順のある部分を改善しようとして、細かな視線やミスディレクションを意識して丁寧な動作を心がけて演じたことがあります。
そのときはゆうき師に即座に、「そのあたりの部分が何かおかしい」と指摘されてしまいました。
今回の演技では、そういう細かいことはあまり考えず、とりあえず染み付いた動きのままに手を動かしてみたわけです。
セリフを少なくするというのも、演技中の余計な思考を削ることに繋がりそうです。
そうすると、上で述べたような「一皮向けた」ような評価を頂いたというわけです。


アマチュアとは言え、カップ&ボールは基本的に同じ手順を20年ほど演じ続けています。
練習もリハーサルも実演経験も、一般的なアマチュアよりは、この演目に関してはそれなりに多いと思います。
だから個々の動作に関しても、難しく考えずに自然体で手を動かしたときには、これまで繰り返したカップ&ボールの動きのクセのようなものが、表に出てくるのかも知れません。

最初は考えて動きを決定し、試行錯誤しながら練習を繰り返した技法や手順も、何度も反復するうちにある程度形が決まってくるでしょう。
そこからは、それほど考えることなく、決まった動きを繰り返すことで肉体に覚えこませるような形になる。
これがいわゆる「稽古」というものの姿なのでしょうか。
そうだとすれば、今回の私のカップ&ボールで感じたようなことは、些細なレベルとは言え、稽古の成果と呼べるのかも。

動作をデザインするときには思考は必要ですが、実際の演技中には余計な思考は無いほうが良いに決まっています。
そこに到達するための過程が稽古かな。

考えながら演技をしたらダメ出しをされたと上で述べましたが、これとて、そこを出発点として稽古を積めば、もちろんまた違ってくる可能性はあるのでしょう。
言葉を変えて言うならば、現時点で深く考えずに手を動かしたほうが良い結果が出ているとしても、それがすなわち方法論自体の、絶対的優劣とは限らない可能性があります。
つまり、新しく挑戦しようとした方法論のほうが潜在的には優れていても、単純な稽古量の差によって、古い方法論のほうが良く見えていると。

まあそういうことも考えられるので、とにかく考えるのをやめて朴訥に演じるのが最上というわけではあるはずはありません。
日々、思考と稽古は必要です。
ただ、実演の段になれば、その時点での稽古の成果として、余計な思考の不要なものを出すべきであると。
そういうことでしょう。


とまあ、随分と偉そうなことを語ったような気もいたしますが、これは私が私なりのレベルで感じたというだけの話で、絶対的にはたいしたものではありませんからね。

この奇術の蘊奥が掴めたとは勿論言えないまでも、どっちの方向にそれが存在しうるかぐらいは、見えそうな気がしていました。
しかしそれは幻想に過ぎず、果てはさらに尽きぬものです。
渋谷方面に行く用事があったので、Bunkamuraザ・ミュージアムでは今何をやっているのかな?とチェックしてみたところ、面白そうな展覧会をやっていたので観てきました。

「進化するだまし絵」だまし絵Ⅱ です。

ニュースリリース等では、アルチンボルドの「司書」という作品イメージが大々的に使われて宣伝されています。
今回は「だまし絵Ⅱ」ということで、何年か前に「だまし絵」展があり、その第2弾ということです。
その第一弾の展覧会は、開催は知っていたものの、私は確か見に行っていません。
そのときも確かアルチンボルドが来ていたような?
いずれにしてもその第一弾の切り口が好評だったため、同テーマでまた展覧会を、という運びになったわけですね。


今回の展覧会はテーマが「だまし絵」ということで、美術の分野を問わず、古今東西の作品の中からこのテーマを感じさせるような作品が多数展示されています。
時代はルネサンスから現代まで。ファインアートに類する作品ばかりでなく、デザイン分野の作品もあります。

「だまし絵」というとエッシャーのような錯視絵画が思い浮かびます。
もちろん今回もアルチンボルドやエッシャーも取り上げられていました。
しかしだます形はそれだけには留まりません。
ただの錯覚だけでなく、見る者の視覚聴覚その他の認識力にフルに働きかけ、色々な側面から鑑賞者の「当たり前」を切り崩してきます。

これは奇術にも非常に通じることですね。
実際、このアイデアは奇術にも生かせるのではないか、と思えたものもいくつもありました。
現実世界では意味不明な物体が、鏡に投影したときだけ誰もがよく知る品物として立ち現れてくる作品とか。
同じことを鏡ではなく、特定方向からの光による影で表現している作品とか。


それと個人的に予期せぬ大収穫だったのは、ダリやマグリットの作品が数点観られたことです。
展覧会のサイト等には、ダリやマグリットの名は確か載ってなかったと思います。
しかし錯視とか2重イメージといえば、確かにこれらの作家が取り上げられても何の不思議もありません。

とくにマグリットの「白紙委任状」が観られたのは幸せでした。
何十年も前に「四次元の世界」というブルーバックの表紙に使われていたのを観て以来、大好きな作品です。
テレビ番組の「美の巨人」で取り上げられたこともありました。
この展覧会、実はそこまで是非観たいというほどでもなかったのですが、「白紙委任状」があると知っていれば是非観たいところでした。
マグリットの代表作のひとつなんだから、サイトで少しでも紹介すればいいのに。
ともあれ、やっぱり来てよかった。

作家個人に焦点を当てたものから、美術館や時代、流派などでくくった展覧会など、美術展の切り口はたくさんあります。
今回のような、全分野横断的な切り口の展覧会は、単純に考えても色々な作品が観られるので面白いですね。
今まで自分が知らなかった、将来お気に入りになりうる作家と出会うチャンスでもあると思います。

開催期間はもう残りわずかで、10月はじめでおしまいです。
全体的にちょっと作品数が少な目かな?という物足りなさはありましたが、内容はバラエティ十分で満足できました。
会期終わり間近ですが、ストレスになるような混雑もありませんでした。
金曜日の夜だからということかもしれません。


出口付近にアンケートがあったので、答えて提出してきました。
将来的な企画に対するリクエスト欄があったので、レメディオス・バロとラルフ・ゴーイングズの名前を書いておきました。

バロについては10年ほど前?に回顧展があったみたいですが、私は観にいけませんでした。
個人の回顧展という形でなく、女性画家とか南米画家みたいな切り口の一部としてでもいいので、是非生でバロ作品を観てみたいものです。

ラルフ・ゴーイングズのほうも、回顧展が開かれるほどメジャーではないかも知れません。
しかし今も脈々とスーパーリアリズムの潮流は続いており、日本人作家も多いです。
そういうテーマの中で、ゴーイングが取り上げられれば嬉しいです。
今回のような「だまし絵」の文脈で捉えることももちろんあり得ますね。