永遠に感じるほど長かった白い冬も終わりを告げ

東京にもようやく藍色の春が訪れた

例年通り桜が咲き、例年通り雨が降った



宵の明星が輝く頃には姫榊の香りが強くなり

夜の帷が降りた茄子紺色の町を逍遥するには良い季節になった

4月の大きな月の引力でそのまま宇宙へ飛び出してしまいそうな気分になる



僕はというと

30回目の誕生日を迎えると同時に貯金が底をつき、晴れて無一文となった


家賃も払えなくなるので、来月から路上での灰色の生活が始まろうとしている


まぁ、なんとかなるだろう











よく晴れた月曜の昼下がり

惰眠を貪り倒した後、やわらかい風に誘われるように当てもなく外へ出た


人気のなくなった住宅街

たまに聞こえる赤ん坊の泣き声

まるで街全体が昼寝をしているかのように

人も雲も駐輪場の猫も、誰にも急かされずゆっくりとした時間が流れている


「なぜ働きたくないのか」

と聞かれたら

「この時間が好きだから」

という答えしか浮かばないほど

僕はこの時間が好きなのだ




子供の頃からそうだった

人より少しだけ走るのが遅く

人より少しだけ考えるのに時間がかかった

周りの生きていく速度に追いつけず

いつも取り残された


大人になれば追いつけると思っていたけど

相変わらず世界は光の速さで回り続け

遠心力に振り回されて

自分だけ外へ弾き出されたようだった



真っ黒な会社員を辞め、透明な無職へ溶けてく

人間失格の烙印を押され

憧れていた野良猫のような生活を送る



歩きたい時に歩き

疲れたら休み

そして眠る


毎日、昇る朝日をウインクで迎えよう

東雲の空が曙色に染まるのを見て、束の間の希望を噛みしめよう


そして毎日、沈む夕日に手を振って見送ろう

黄昏が茜色に燃えるのを見て、今という永遠を胸に刻もう





でも、そんなものは幻想に過ぎない

美化されただけの未来なんて唾棄すべき妄想だ

衣食住全てを失って生きていけるほど、強い人間ではないこともわかっている



真剣に考えれば考えるほど、目の前の暗闇が広がってくる


震えるほど恐ろしい現実から逃げるために

僕はそのままバスに乗り込み海浜公園へ向かった

辛い時はいつもここへ避難するのだ









貸切のバスを降りて公園の入り口へ向かう

吹く風は潮の香りが一層強くなる

この坂を登り切ると海が見えてくる

一歩一歩踏み締めて歩き

徐々に現れてくる水面にいつも心踊らされる


どんなに辛い現実も

「なんとかなるさ」

と思わせてくれる

この場所が好きだ




湿度を帯びた風が水平線の彼方まで吹き抜け

花壇には一斤染色の綺麗なラナンキュラスが咲いている


緑青に錆びたジャングルジム

テトラポットに砕ける波

ベンチで寄り添う老夫婦

ここにいる間だけは世界の一部になれた気がする




穏やかな気持ちで微睡みながら海を見ていたら

突然背後からおじいさんに声をかけられた


「こんにちは」


「あっ、こんにちは」


「ここ、お好きですか?」


「はい…好きです…」


戸惑う僕に微笑みかけ、おじいさんは隣に立って海を見つめる

背は低いが姿勢が良く

目尻に刻まれた皺が柔らかい印象を与える


「よくいらしてますよね」


「はい、よく来ます」


「何をされてるんですか?」


「特に何も、ぼーっと海を眺めてます」


初対面だけど話し易いのはこの人の醸し出す雰囲気なのだろうか

落ち着いた会話のテンポがお互いに合うのかもしれない



「飽きないのですか?」


「ちっとも飽きません

 来るたびに違った景色が見られるので」


「そんなに違いますか」


「そうですね

 空と海の色も、咲いてる花も

 今はラナンキュラスが綺麗に咲いてます」


「気づきましたか」


なぜだろう

おじいさんは少し嬉しそうにしている

そして細い指を顎に当てて何か考え事をしているようだ


「つかぬことをお聞きしますが、お仕事は何をされていますか?」


答えづらい質問だ

嘘をつこうかとも思ったが、考えるのが面倒なので正直に答えた


「少し前に辞めまして、今は無職です」


公園で会ったおじいさんに、世間体も見栄もない

しばらく沈黙した後、おじいさんは「うん」と頷き僕の方を向いた



「ここで働きませんか?」


予期せぬ誘いに言葉が出ない


「この公園を管理する仕事を私としませんか」


思考が追いつかない

こういう時なぜかいつも拒否してしまう

悪い癖だ


「いや、僕には無理ですよ

 やったことないですし」


やったことある人間の方が少ないだろう

とにかく突然の誘いというものが苦手だ

一旦家で考えさせてほしい


「ここで働ける人の条件は4つ

 挨拶ができる人

 この公園が好きな人

 毎日居ても飽きない人

 些細な変化に気づける人です

 貴方は全てを満たしている

 適任です」



驚いた

30年生きてきて

「自分は労働に向いていない」

とずっと思っていた


こんな僕にも向いている仕事があるのか

目から鱗と言うべきか

青天の霹靂と言うべきか

どちらにしろ、こんな機会は二度とないだろう

じっくり考えてからおじいさんの目を見てまっすぐ言った


「よろしくお願いします」









それから僕は毎日公園へ通っている

現実から逃げるためではなく

現実を生きるために


透明だった心にも少しずつ色が灯り始めた

これからどんな色に染まっていくのか

真っ新な空を見ながら楽しみに待っている