この窓は君のもの 1996.3.30 文芸坐2 | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 

 

 山梨の高校生の夏休みの話。これが現代の高校生の本当の姿なのか。田舎ならこうかな、とも思えるし、時代を超越したような印象があった。高校最後の夏休み、進学する気はないのか、皆のんびりとした日々を送っている。校庭に行けば同級生がいてボールで遊んでいたりする。暑いさなか勉強するのもめんどうくさい。三学期は来ても、ないような気でいるようだ。

 

 仲間のひとりの家にたむろしている。その家の二階へは外側の樹木からよじ登っていく方が簡単だからそうしている。タローは足を骨折してしまった。そんなことから仲間意識がより強くなったりする。屋根にのって花火を見たことも思い出のひとつ。等々、作り物らしさを感じなかったし、また嘘臭さもまったく感じなかった。それは不器用な人間のほうが多いという当たり前のことを当たり前に描いていたからだ。

 

 映画だから、特別な世界を取り上げなくてはいけない、ということはない。特別な珍しい話をとりわけ強調して描く必要はないのに、ほとんどの映画はそればかりだ。だからといって、何のドラマの盛り上げもないストーリーでいいわけではない。高校生の生活が、あの開けはなった窓のようなものなのか、こんな若者たちが実際いるのか、疑問があっても否定する材料もない。だから外国映画でも見るような感覚で見ていた。たとえばフランス映画だとか。フランスでだったら、いかにもありそうな話だ。高校生といってもフランスではずっと大人だろうけど。

 

 物語の流れがつかめないのは新鮮でいい。どこにでもいそうな高校生がいて、思いがけない行動をする。でも安手のテレビドラマにはなっていない。わざと観客の想像をはずすつもりで作ったのであれば、見事成功している。そう深読みをする必要はないかもしれない。

 

 多分、作者はごく素直に作ったと思う。自分の経験もあるはずだし、あんなものが、今の高校生の一面でもあるのだろう。自分の思いをうまく伝えられないまま、陽子が小型トラックの荷台に乗って遠くへ去っていくのを見る時の気持ちは分かる。タローは陽子に気持ちは何となく伝えた。だけど、高校生の身ではどうしようもない。この夏休みの思い出はかなり長い間、心に残ることだろう。だけど、幸いにも心の傷としてではない。淡い恋心とも呼べないような、仲良し仲間とのなつかしい一夏の思い出として。

 

監督 古厩智之

出演 清水優雅子 榊英雄 上赤俊朗 久保田芳幸 黒瀬祐美 野間亜由子 山口徹

1995年