1985年のある日、私は鞍山製鉄所を訪問するため、何人かの同行者と大連にいました。昼、大連の海岸のレストランで日本風の刺身を食べ、列車で鞍山に移動しました。その夜、泊まったホテルで強烈な腹痛を起こし、救急車で鞍山第一医院に搬送されました。その時、夜を徹してベッドの脇に座って看病してくれたのが葉綺先生でした。

 葉綺先生は1929年東京生まれの野崎綾子という女性でした。もちろん日本語堪能で、ひどい下痢で苦しむ私にとっては頼みの綱でした。

 その時、先生のことはよく知りませんでしたが、2000年8月11日のNHKテレビ「20世紀 家族の歳月」「昔の綾子 中国に生きた日本人女性」という番組で紹介され、こんなに立派な方だったのだと初めて知りました。

 野崎綾子の父、野崎薫は福島県相馬市で銀行を経営する資産家の四男でした。彼は綾子が5歳の時に家族で中国に渡り、満州鉄道の農業技術指導者として北京に駐在していました。北京近郊の農村を巡回し、農民に米や大豆の育て方を教えていたのです。1943年彼は満鉄を退社、吉林省柳樹河というところで牧場経営を始めました。家族は牧場から180㎞離れた町に住み、綾子は吉林日本高等学校に通っていました。1945年8月15日、綾子が15歳の時、彼女は学校で終戦の玉音放送を聞きました。

 その後家族は日本に帰国しますが、綾子は一人吉林に残り、衛生兵として八路軍に加わります。そしてハルピン医科大学の2期生として内科医になり、2000年当時は北京の中日友好病院国際医療部部長を務めました。北京日本人学校の校医も兼任され、同年、日本国政府より勲五等の叙勲を受けました。

 彼女の一生については、2009年に「日中 医と愛の架け橋 女医葉綺の遺稿「吾が愛 吾が道」(元就出版社)という単行本が出ています。

 

 「何のために生きるのか。自分の信じる道を行く」「私の人生は患者のためにある」

彼女の人生を知り、彼女が残した言葉に接すると「自分は何のために生きて来たのだろうか」と考えさせられます。答えは分かりませんが、また中国に行きたい、また友達と会いたいという気持ちを考えると、私の人生は日中友好のためにあったのかも知れないと思いました。

 

         (掲載したNHK番組のDVDを持っていますので、ご希望の方にはお貸しします)