今は昔、

及川ミッチーが登場する遥か以前に

王子がいた。


彼は、その王子と仕事をしていた。

携帯電話の番号は、「王子」で登録した。

電話を落としたりしたときの用心に。

王子は、とても人気のある歌手だった。


外国に行ってしまった王子が帰ってきて、

今は別の仕事をしている彼を探し出した。

探したのは、本人ではなくお付きの人(イメージ)で

電話して、こう言った。

「王子があなたに会いたがっています。

お招きしますので、ぜひいらしてください」


わたしも行きたいな、

と思ったけれど、

彼が出かけるときはわたしが、

わたしが出かけるときは、彼が

夜は家にいなくてはならない。


いろんな人から、話を聞いた。

王子に楽屋で紹介されただけで、その瞬間


自分は今この人に紹介されるためだけに

この世に生まれてきたのだ・・・


と思うようなオーラを出すらしい、とか。

彼に言うと、

ニコニコして「人たらしだねえ」と頷いた。


その夜、明け方近くに帰ってきた彼が

ベッドにもぐりこんできた。

布団ごしに、とてもいい時間だったのがわかった。

王子は、彼に会うと

「○○さんが来てくれただけで、僕の心の客席は満席です」

と言ったんだって。


本当に満席だったよ、と

後日別の人から聞いた。


それが昨年の話で、

今年も招待状をいただいたので

「わたし行ってみたい」と言って、

別々の日にコンサートに行くことになった。

わたしが先だった。


それが昨夜の話で、

朝方わたしは彼のベッドにもぐりこんだ。


「ずっと『ラブリー』が頭で鳴り続けてるんだけど、わかる?」


「歌うと色っぽいね」


「ギターとベースとカルテットとね、

シンプルだから歌声も楽器っていうか、体がつながっててね」


「幸福な恋愛映画をずっと観てるみたいだった。

だけど別れてしまった二人の、昔の」


「昔の曲を今歌っても全然イタくなかったよ。

歌そのものが時間に耐えられるクオリティっていうのもあるけど

昔と同じ歌い方はしていないんだよね、きっと」


「ねえ、どうして『なるほど』しか言わないの?」


何を言っても「なるほど」としか答えなかった夫は


「あの人本当にあなたより年上なの、

シュッとしてたよ。オザケンみたいになってよ」

と言ったときだけ、

眠そうに


「細すぎるんだよ、昔から」


と答えた(たしかに)。