今日は、本編のホームページに、川中島古戦場巡りの散策記をアップしました。

本編のホームページは こちら です:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html





川中島は越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が戦った古戦場として知られています。

両者の戦いは1553年(天文22年)から1564年(永禄7年)の12年間にわたり、5度の合戦が行われています。
この中でも、1561年(永禄4年)の第四次合戦が最も規模が大きな戦いで、謙信と信玄が直接太刀を交えたとも伝わります。

2011年10月にその古戦場を散策しています。
その際の様子を紹介します。


松代駅でレンタサイクルして川中島の古戦場に向かいました。
松代から長野市の中心街へと向かう道に沿って走ります。

この先で千曲川を渡ります。
滔々と流れる千曲川の様子です。


撮影: 2011年10月


まず向かったのは典厩寺です。
典厩寺へは、千曲川を渡り、すぐに左手に曲がります。


撮影: 2011年10月


典厩寺は、元々は鶴巣寺という名前のお寺だったのですが、1654年(承応3年)に松代藩主・真田信之が、武田信玄の弟だった武田信繁にちなみ、彼の役職名をとって典厩寺と名付けています。

典厩寺には日本一大きな閻魔像があります。


撮影: 2011年10月


閻魔堂は、松代藩第八代藩主・真田幸貫公によって6,000人にも及ぶ、第四次・川中島合戦の戦死者の追善供養の為1860年(万延元年)に建立されています。

お寺の名前のもとになった武田信繁は、武田氏を甲斐を統一した武田信虎の四男として1525年(大永5年)に生まれています。
信繁は性格もよく、武田信虎は信玄ではなく信繁に家督を継がせようとしていたとも伝わります。
それは、1541年(天文10年)に信虎が信玄によって駿河に追放になった為に実現していません。

信繁は、その後武田家の御一門衆として、信玄を支えていましたが、1561年(永禄4年)の第四次川中島の合戦で、戦死してしまいます。


境内には、血まみれの信繁の首を洗った井戸がありました。


撮影: 2011年10月


第四次川中島の戦いでは、両軍合わせて7,000人にも及ぶ戦死者がいたとされています。
武田軍は、副将の武田信繁が戦死するほどで、危うく全軍が崩壊する手前まで追い詰められたそうです。

本堂の先に武田信繁のお墓がありました。


撮影: 2011年10月

享年37歳。
信繁の死は「惜しみても尚惜しむべし」と言われ、敵方の上杉氏からもその声が挙がったそうです。


今日紹介したホームページの川中島の散策記は こちら です:
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