今日は、本編のホームページに、能登半島にある總持寺祖院の様子をアップしました。

本編のホームページは こちら です:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html







能登半島の西側の海岸を羽咋から北上してきた国道249号線は、天領黒島地区を過ぎると内陸部を走るようになり、黒島から10分程で總持寺の門前町に着きました。


撮影: 2011年10月


参拝受付を過ぎ、左手に経蔵がありました。


撮影: 2011年10月


1743年(寛保3年)に加賀藩6代藩主・前田吉徳が建立しています。
この経蔵の建設にあたっては、加賀騒動の主犯とされる大槻伝蔵が奉行として携わっていました。


輪蔵の先には立派な山門が建っていました。
総檜造りで、1932年(昭和7年)に建てられています。


撮影: 2011年10月


總持寺は、元々は諸岡寺と呼ばれた行基が創建したと伝わる密教系のお寺だそうです。
1321年(元亨元年)に当時の住持・定賢が、現在の羽咋市にある永光寺の瑩山紹瑾に寺を譲った事に始まります。

永平寺との間で、曹洞宗大本山の地位を争っていましたが、1615年(元和元年)に、江戸幕府が總持寺と永平寺の両寺を曹洞宗の大本山とし、幕府祈願所にも定めています。


山門の両側には廻廊が伸び、中庭の周囲に建つ大祖堂や仏殿などの七堂伽藍のお堂を繋いでいます。


撮影: 2011年10月


上の写真は、山門を抜けて眺める大祖堂の様子です。
大祖堂は大正時代に再建されています。


仏殿には山岡鉄舟の書の襖がありました。


撮影: 2011年10月


中庭から見上げる山門の様子です。
その右手には鐘楼があり、北側の坐禅堂へと廻廊が繋がっています。


撮影: 2011年10月


夕暮れも迫り、境内には他に訪れる人もいません。
迫力ある堂宇に囲まれ、圧倒される思いがしていました。


總持寺祖院の北東角には、伝燈院と放光堂があります。
下の写真は放光堂です。


撮影: 2011年10月


放光堂は納骨堂として1911年(明治44年)に再建されています。
装飾が施されたお堂に夕日が差し込み、とても印象的でした。


1898年(明治31年)には大火により多くの堂宇が焼失し、1905年(明治38年)に再建されます。
この大火を機に總持寺移転の検討がなされ、1911年(明治44年)に總持寺は横浜に移転してしまいます。
能登の總持寺は、總持寺祖院としてこの地に残りました。


今日紹介したホームページの輪島の總持寺祖院の散策記は こちら です:http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Chubu01/Wajima.html#Sojiji

 

 

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