海の日の7月15日、、久しぶりに散策に出掛けました。
行先は大阪の南部、古市古墳群です。ここは最近、百舌鳥・古市古墳群として世界遺産に認定されましたが、大坂夏の陣の激戦地にもなったところです。

第一回目の記事は、です:
https://ameblo.jp/shanehashi/entry-12494769589.html


允恭天皇陵古墳から、応神天皇の皇后・仲姫命陵と比定されている古墳を巡りました。
仲姫命陵古墳の前には古室山古墳があります。



古室山古墳は、立ち入りも可能で、墳丘が緩やかなカーブを描く様子が素晴しく、すぐに行ってみたいところですが、一旦来た道を戻り、仲姫命陵古墳の東南にある三ツ塚古墳を訪れました。三ツ塚古墳は助太山古墳、中山塚古墳そして八島塚古墳の3つの古墳です。

まずは公営団地の駐車場の脇にある助太山古墳です。



三ツ塚古墳の両側を道路が走っていますが、助太山古墳の案内板のある側の道からは、真ん中の中山塚古墳は見る事が出来ず、次に一番北東にある八島塚古墳に近づきました。



中山塚古墳と八島塚古墳は宮内庁が管理する古墳で、内に入る事は出来ません。
最後に、中山塚古墳の様子を眺めました。



中山塚古墳と八島塚古墳は案内板も無いようで、ちょっと残念でした。
三ツ塚古墳を訪れた後、古室山古墳を訪れました。



古室山古墳の南側からアプローチしました。
古室山古墳も前方後円墳で、長さは150mあります。

前方部が北側にありますが、その前方部に設けられた段差がなんとなくわかります。
前方部の頂から、後円部を眺めた様子です。



後円部の頂上は芝生も剥げていましたが、そこに古墳の絵が描かれていました。



そして、後円部の頂上からは大阪の高層ビルも良く見えていました。
反対側を眺めると、高速道路の向こう側に小高い杜が見えています。



この杜が応神天皇陵古墳です。
古室山古墳の墳丘を降り、高速道路の下をくぐって応神天皇陵古墳に向かったのですが、その手前に小さな古墳がありました。
大鳥塚古墳です。



この古墳の周囲を巡る形で歩いてくと、応神天皇陵に辿り着きました。



上の写真の左手にこんもりと木々が生い茂っていますが、この杜も陪塚の一つで誉田丸山古墳です。
この小さな古墳から江戸時代に金銅製の鞍金具が発掘されましたが、その鞍金具は国宝に指定されています。

応神天皇陵古墳の遥拝所です。



応神天皇陵は長さが425mもあり、百舌鳥の仁徳天皇陵(大仙古墳)の486mに続き、全国第二です。
しかし、墳丘の高さが36mあり、積まれた土砂の量としては国内最大の古墳です。

この遥拝所からも見上げるような高さで、迫力を感じます。

応神天皇陵古墳の遥拝所から濠の北側をめぐって後円部側を目指しました。
応神天皇陵の北側は畑が広がり、天皇陵が広く見渡すことが出来ました。



天皇陵を広く見渡すといっても、見えているのは濠の外側に生えている木が視界のほとんどを占め、墳丘に生える木々はその向こうです。
案内板にこの辺りの古写真が載っていましたが、昭和に入っても応神天皇陵の周辺は田畑が広がり、その当時は遠くからでも古墳の様子が良くわかったようです。

長い事歩いて、やっと後円部が見えるところまでやって来ました。



手前の木々は桜の木で、この辺りは春は綺麗な景色になるでしょう。
この辺りから住宅が建てこんでいます。


道端の用水路は大昔の応神天皇陵の外濠の名残と思います。
この近くに誉田八幡宮があったので、立ち寄ってみました。



誉田八幡宮は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祭神とした神社です。
1433年(永享5年)に足利義教がこの地に移設したと伝わります。



誉田八幡宮の社殿は豊臣秀頼が片桐且元に命じて造らせたものですが、大坂の陣が勃発したため、再建工事は中止となり、豊臣氏が滅びた後、第三代将軍・徳川家光が工事を再開させ、寛永年間に竣工したそうです。

この本殿の脇から応神天皇陵を拝む場所がありました。
そこには石の反り橋がかかっていました。



9月15日の秋の大祭では、神輿がこの反り橋を渡って応神天皇陵に渡御しているそうです。
境内には誉田林古戦場の碑もありました。




南北朝の頃から交通の要衝だったこの地を舞台にいくつかの戦いが行われたそうです。
そのうちの最後の一つが大坂夏の陣で、大坂方の薄田隼人正が誉田八幡宮に陣を敷き、道明寺方面に出陣し、討死を遂げたそうです。


誉田八幡宮からどうしようかと、少々悩みましたが、一旦藤井寺市のマップから離れ、羽曳野市役所の西側にある墓山古墳を目指しました。
羽曳野市役所前を走る国道170号線を越えると、住宅密集地になり、なんとか墓山古墳の近くに辿り着きました。



この辺りは、市域が入り組んでいるのか、羽曳野市役所の近くのはずなのに、表示されている住所は藤井寺市になっています。
古墳の西側、前方部に来るとやっと古墳を広く見渡せる場所がありました。



墓山古墳は、この日最初に訪れた允恭天皇陵古墳とほぼ同じ平面形状で、允恭天皇陵がこの墓山古墳を真似て造られたと考えられているようです。墓山古墳は長さ225mと、允恭天皇陵とほぼ同じ大きさで、こちらが天皇陵に比定されていないのが不思議なほど大きな古墳です。
人を模した最も古い埴輪が出土しているのもこの墓山古墳で、大王が葬られているのでは、と思います。

墓山古墳の西側には浄元寺山古墳があります。



一辺が67mの比較的小さな方墳で、墓山古墳の陪塚だそうです。
浄元寺山古墳を訪れ、墓山古墳の南側を通って、羽曳野市役所に戻りました。



丁度、参院選の不在者投票中で、市役所が開いていたので、トイレを借りました。
その後、誉田八幡宮に戻りました。



~ つづく ~


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