今日は、奥丹後・鳥取の旅の3日目の様子を紹介します。
第一日目の様子は、こちらです:
http://blogs.yahoo.co.jp/shanehashi/62643820.html
第二日目の様子は、こちらです:
http://blogs.yahoo.co.jp/shanehashi/62645902.html3日目の5月2日、一週間前の天気予報では、この日は
山陰地方は晴れだったのですが、当日が近づくにつれ
どんどん予報は悪い方向に変わって行き、
生憎の雨になってしまいました。
山陰地方は晴れだったのですが、当日が近づくにつれ
どんどん予報は悪い方向に変わって行き、
生憎の雨になってしまいました。
で、予定変更して向かったのは
鳥取市の西にある鹿野城址です。
鳥取市の西にある鹿野城址です。
鳥取発、7:25の米子行に乗車しました。
元々の予定では、若桜鉄道に乗って若桜に向かい、
山城の若桜鬼ヶ城に登る予定でしたが、登山道が
どの程度整備されているのか、情報がなく、
しかも山頂からの眺望が望めないと残念なので、
平山城の鹿野城に変更したのでした。
山城の若桜鬼ヶ城に登る予定でしたが、登山道が
どの程度整備されているのか、情報がなく、
しかも山頂からの眺望が望めないと残念なので、
平山城の鹿野城に変更したのでした。
鳥取から30分程、西に向かった浜村で下車し、
バスで鹿野に向かいました。
バスで鹿野に向かいました。
浜村駅前で待っていたバスに乗りましたが、
バスの乗客は僕一人でした…
バスの乗客は僕一人でした…
浜村駅から20分程で鹿野に着き散策を始めました。
鹿野城は戦国時代のお城ですが、
1544年(天文13年)に尼子勢によって陥され、
秀吉の頃、亀井慈矩(これのり)が近世城郭に改築し、
1617年(元和3年)に二代目亀井政矩が
津和野に移るまで続いていました。
鹿野城は戦国時代のお城ですが、
1544年(天文13年)に尼子勢によって陥され、
秀吉の頃、亀井慈矩(これのり)が近世城郭に改築し、
1617年(元和3年)に二代目亀井政矩が
津和野に移るまで続いていました。
そんな鹿野ですが、城下町の佇まいを残していました。
車の走る大通りから一歩入ると
疏水が流れる道の両脇に静かな集落が続き、
所々、古い趣のある家が残っています。
疏水が流れる道の両脇に静かな集落が続き、
所々、古い趣のある家が残っています。
家々には、風車が掲げられ、
疏水の上に花が活けられていました。
あの司馬遼太郎さんが
"ぜんたいに、えもいえぬ 気品をもった集落である"
と書いた、そのままの雰囲気が残る町でした。
小さな鹿野の町を、ゆっくり散策して
鹿野城址に向かいました。
鹿野城址に向かいました。
鹿野城址は妙見山という比高100m程の山の麓に
本丸、二の丸そして三の丸跡と2重の堀が残り、
山の頂上に天守台が残っています。
本丸、二の丸そして三の丸跡と2重の堀が残り、
山の頂上に天守台が残っています。
前日に急峻な有子山城に登った後なので
足がかなり疲れていたのですが、
それでも15分程で山頂に辿り着き、
天守台や鹿野の町を眺める事が出来ました。
鹿野からは11:10発のコミュニティバスで宝木駅に出て、
鳥取に戻り、次の目的地、鳥取城を目指しました。
鳥取に戻り、次の目的地、鳥取城を目指しました。
鳥取に戻った頃から雨脚が強くなり、
本降りの状態になってきました。
本降りの状態になってきました。
ここは日本100名城にも選ばれている名城です。
戦国末期に、秀吉が兵糧攻めにして落城させた事で有名ですが、
江戸時代に入って池田氏が城主となったお城です。
戦国末期に、秀吉が兵糧攻めにして落城させた事で有名ですが、
江戸時代に入って池田氏が城主となったお城です。
標高263mの久松山の麓の山下之丸と山頂の山上之丸に分かれ
江戸時代は主に山下之丸がお城の中心機能を担っていました。
鳥取藩32万石のお城だけあって
幾重もの石垣が築かれている様は,見事でした。
幾重もの石垣が築かれている様は,見事でした。
上の中でも天球丸の半球状の石垣は
鳥取城にしかない石垣でしょう。
鳥取城にしかない石垣でしょう。
麓の山下之丸を散策した後に、山頂の山上之丸を目指しました。
前日の有子山城程ではありませんでしたが、
ここもかなりの上りです。
前日の有子山城程ではありませんでしたが、
ここもかなりの上りです。
25分程かけて辿り着いた山上之丸は、ガスが掛かり
深い山の中の様な雰囲気になっていました。
深い山の中の様な雰囲気になっていました。
雨もかなり降っていて、ズボンの裾も
背負っているリュックサックもしっかり濡れてしまっています。
汗を掻いた後で、身体も冷えてしまい、
散策を続けようかどうしようか迷いましたが、
街中に戻り、大通りに出た途端に
空車のタクシーが通りかかったので、
思わず手を挙げてタクシーを停めていました。
散策を続けようかどうしようか迷いましたが、
街中に戻り、大通りに出た途端に
空車のタクシーが通りかかったので、
思わず手を挙げてタクシーを停めていました。
タクシーを奮発して向かった先は、
鳥取藩主・池田家墓所です。
鳥取藩主・池田家墓所です。
鳥取藩主の池田氏は、元々は岡山藩主だったのですが、
池田光仲が、岡山藩主を引き継いだ時に、僅か2歳と
幼少だった為に、岡山藩主を従兄の池田光政に譲り、
初代鳥取藩主として移封されたのでした。
池田光仲が、岡山藩主を引き継いだ時に、僅か2歳と
幼少だった為に、岡山藩主を従兄の池田光政に譲り、
初代鳥取藩主として移封されたのでした。
この池田家墓地には、その初代・池田光仲公から
11代・池田慶栄公までの藩主と室など、
全部で70名以上が葬られているそうです。
11代・池田慶栄公までの藩主と室など、
全部で70名以上が葬られているそうです。
ここまで足を伸ばす観光客も少ない様子で
墓所はとても静かで、張りつめた雰囲気でした。
タクシー代を奮発して来た甲斐がありました。
この池田家墓所が、今回の最後の散策地。
この後、鳥取駅に戻り、16:54の
特急「スーパーはくと」で家路に就きました。
この後、鳥取駅に戻り、16:54の
特急「スーパーはくと」で家路に就きました。
この「スーパーはくと」でも、
先頭車両の前面展望席を抑えていました。
鳥取から2時間45分程で、新大阪に到着し、
「のぞみ」に乗り換えて名古屋に向かいましたが、
新大阪駅のコンコースやホームは明日からの
4連休を控え、多くの人で賑わっていました。
「のぞみ」に乗り換えて名古屋に向かいましたが、
新大阪駅のコンコースやホームは明日からの
4連休を控え、多くの人で賑わっていました。
人の姿を殆ど見かけない山城や墓所を巡った後だけに
その賑わった新大阪駅では、目が回りそうでした…
その賑わった新大阪駅では、目が回りそうでした…
今回の旅の様子も、後日に
本編のホームページで詳しく紹介する予定です。
本編のホームページで詳しく紹介する予定です。
現在、在庫が3年分程溜まってしまっていますが
気長にお待ちいただけると幸いです(^^;
気長にお待ちいただけると幸いです(^^;