川中島古戦場のメインとなる八幡原古戦場跡を訪れ、
次に向かったのは、胴合橋を経て山本勘助の墓、
それから諸角豊後守の墓、広田城址です。
次に向かったのは、胴合橋を経て山本勘助の墓、
それから諸角豊後守の墓、広田城址です。
胴合橋は、第4次川中島の戦いで戦死した
山本勘助の胴と首を合わせたと伝わる橋です。
山本勘助の胴と首を合わせたと伝わる橋です。
数年前にNHKの大河ドラマで一躍脚光を浴びた
信玄の軍師だったと伝わる山本勘助。
信玄の軍師だったと伝わる山本勘助。
命を落とした場所は、ここから3㎞程西にあります。
胴合橋から、千曲川の堤防沿いを走りました。
川中島古戦場のある善光寺平を囲む山々が眺められ
とても気持ちのいいサイクリングです。
とても気持ちのいいサイクリングです。
写真は、松代方面の眺めです。
山本勘助のお墓は、千曲川を渡った
金井山の集落の近くにあります。
金井山の集落の近くにあります。
松代駅から八幡原古戦場に向かう際に
千曲川を渡ったのですが、再び
その千曲川を渡りました。
千曲川を渡ったのですが、再び
その千曲川を渡りました。
ゆったりと流れる千曲川。
この下流で犀川と合流し、
信濃川となって日本海に注ぎます。
この下流で犀川と合流し、
信濃川となって日本海に注ぎます。
千曲川を渡ったところの集落が長野市
松代町の小島田や柴の集落です。
長野電鉄屋代線の金井山駅があります。
松代町の小島田や柴の集落です。
長野電鉄屋代線の金井山駅があります。
この集落に入って道に迷っているうちに
大鋒寺に辿り着きました。
大鋒寺に辿り着きました。
庭の落ち葉を焚いていたご住職に案内して頂き、
信之公の霊屋やお墓を見て回りました。
信之公の霊屋やお墓を見て回りました。
山本勘助のお墓は、この大鋒寺から150m程の
千曲川の河原にありました。
千曲川の河原にありました。
千曲川の河原から眺めた山本勘助のお墓の辺りです。
写真の左側、堤防の手前にある
髙い木の根元辺りにお墓がありました。
この辺りは広瀬の渡しと呼ばれ、
武田信玄が海津城(後の松代城)から
八幡原へ軍を移動させる際に渡った地点だそうです。
武田信玄が海津城(後の松代城)から
八幡原へ軍を移動させる際に渡った地点だそうです。
山本勘助のお墓を訪れた後に、諸角豊後守のお墓、
そして広田城址などを巡っていたのですが、
広大な善光寺平に点在する史跡を見て回るうちに
疲れが出てしまい、予定していた勘助が亡くなったとされる
勘助宮などは別の機会にする事として松代駅に戻りました。
そして広田城址などを巡っていたのですが、
広大な善光寺平に点在する史跡を見て回るうちに
疲れが出てしまい、予定していた勘助が亡くなったとされる
勘助宮などは別の機会にする事として松代駅に戻りました。
この写真は諸角豊後守のお墓です。
武田信虎、信玄の二代に亘って武田氏に仕え
武田典厩信繁を支えた81歳の老将も
第4次川中島の戦いで命を落としたのでした。
武田典厩信繁を支えた81歳の老将も
第4次川中島の戦いで命を落としたのでした。
松代駅に戻り、須坂行の電車に乗りました。
後で思ったのですが、この日はとても天気が良く
見晴らしも効いた筈なので、妻女山に登って
川中島や松代の様子を眺めるのも一興だった事でしょう。
見晴らしも効いた筈なので、妻女山に登って
川中島や松代の様子を眺めるのも一興だった事でしょう。
ちょっと悔やまれますが、またの
機会の楽しみにしていようと思います。
機会の楽しみにしていようと思います。
松代から乗車した2両編成の屋代線の電車。
遠く飯綱山を眺めながらリンゴや
ブドウ畑の間を走っていきました。
ブドウ畑の間を走っていきました。
途中の信濃川田で、屋代行の電車とすれ違いました。
この光景も見納めと、思います。
この光景も見納めと、思います。
この屋代線の廃止の背景については、
別記事で取り上げたいと思います。
別記事で取り上げたいと思います。
この日は、もう一箇所、訪れています。
その様子は、また後日に紹介しようと思います。
その様子は、また後日に紹介しようと思います。
また今回の川中島古戦場巡りの旅の様子も、後日に
本編のホームページで詳しく紹介しようと思います。
本編のホームページはこちらです:
http://www.geocities.jp/shane_hsmt/index.html
本編のホームページで詳しく紹介しようと思います。
本編のホームページはこちらです:
http://www.geocities.jp/shane_hsmt/index.html
また本編のホームページには、今回乗車した路線や
訪れたところを、既に紹介しています:
訪れたところを、既に紹介しています:
~つづく~